報告会 |
日本のどこにでもある某ファーストフード店内に一人の男と二人の女が一つのテーブルについていた。
「いやあ、洋子が先生だよ、先生! しかも保健の先生!!」
スーツを着こなす、というよりはスーツに着られている女、西野弥生がジュース片手に言う。着せられている理由は、二十歳を過ぎているのに顔にも出す空気にも幼さが残っているからだ。一方、言われた女――これまたスーツ姿、しかしこちらは完璧に着こなしている――三上洋子は特に気にするわけでもなく、淡々とポテトを口に運んだ。弥生と同い年にもかかわらず、洋子には幼さはない。代わりに社会人とはまた違う妙な貫禄があった。
「公務員になると昔から言ってたじゃないか」
最後の男――こちらもちゃんと着こなしている――真鍋恭平もホットドックを片手に淡々と言う。彼はただ単にスーツでの場数を踏んでいるからである。座っている今の状態では判らないが、すらりと背が高く、手足の長い恭平はスーツがよく似合う。職場の女性たちに人気だが、本人はまったく気にしていない。
「保健の先生って言ったらさ、別に親しいわけでもないし、なんも根拠もないのに生徒に頼られてさ、相談されたり懐かれたりするんだよね」
「偏見よ、それ」
洋子は弥生を見もせず言った。
「弥生、お前今言ったこと実行したことあるか?」
恭平は洋子のポテトを見つめながら言う。視線に気づいた洋子は一本だけ恭平に差し出した。それを口で受け取り、恭平は満足そうに頷いた。
「ううん、ないよ?」
「…………」
「…………」
弥生の答えに二人は黙った。
呆れたのではない。予想通りの答えに言葉をかけるのも面倒だったのだ。
「で、弥生のほうはどうなの?」
洋子がすばやく話を変えた。
「ん? んー、先輩について回ってひたすら修行の日々」
そう言ってストローに口を付けた。
「税金とかじゃないくて、離婚のほうの弁護士だったな」
前者ならどこかで会えたかもしれなかったのか、と思いつつ恭平は言う。
「うん、そうそう」
「そっち専門で行くつもり?」
コーヒーを啜り、洋子が言う。洋子はもちろん、弥生はまだ若い。だから今すぐに方向性を決める必要はない。が、弥生はずっとそちら方面に進みたいと周囲には話していた。
「んー、ちと迷ってる」
だが、弥生は少し眉間に皺を寄せ、腕を組んだ。
その動きに二人は目を見開いた。あっさり頷くと思ったからだ。
自分の夢のために真っ直ぐに生きてきた弥生の迷いだからこそ、とても珍しいものだった。念願の職業に就けたことに涙を流して喜んだ弥生を知っているからこそ、その迷いは弥生にとって重いものだと察することが出来た。
「なんちゅーかね、この仕事してるとどろどろの離婚劇を何度も見るのね」
弥生は離婚関係に強い弁護士事務所の新人――と言えば聞こえはいいが、今はただの下っ端または雑用だ。
「それが結構ねー、精神的にダメージがくるというか、結婚願望が薄れるというか、なのさ」
「仕方ないんじゃない?」
合点の言った洋子は軽く息を吐いた。案外まともな答えに少し拍子抜けをしている。
「そもそも、そんなものあったの?」
酷い発言だが、弥生は気にしない。もちろん恭平も。
「ほいでキョンくんはどうよ?」
無神経な発言をまったく気にせず、弥生は洋子のポテトを勝手につまみつつ言った。洋子は弥生を気にすることなく恭平を見る。
「うん」
ホットドックにかじりつき、咀嚼。顎を鍛えるかのように何度も何度も咀嚼。
「…………」
「…………」
「もぐもぐ」
二人の注目を一身に浴び、マイペースに食事を続ける。三十秒後、弥生が飽きて明後日の方向を眺め始め、一分後、洋子が諦めて目を瞑った。
その一分後、恭平はホットドックを食べ終えた。
「二人も知ってるけど、俺、機械屋の設計に就職したんだよね」
備え付けのペーパーで手を拭きつつ恭平がようやく話を始めた。二人の視線が再度集まる。
「この前現場に行ったんでしょ? どうだった? 自分で描いたものが本物になるってのは」
「感動だ」
恭平はそのときの気持ちを思い出したのか、しみじみとため息をつくように言った。
「それで?」
だが洋子はまったく気にかけず話を促す。
「うん、でだ。俺は設計だ。出張してそれが実物になってるのも見た。なのにだ」
恭平はいったん切り、小さく息を吐いた。
「気がついたら営業の奴と一緒にいろんな会社回ってる」
「…………」
「…………」
今度の沈黙は思考の沈黙である。
「すぱっと整理すると、キョンくんは設計なのに営業してるってこと?」
「整理してもしなくても、その意味にしか取れないわね」
幼馴染たちの流れるようなやり取りに恭平は無意味に感動を覚えた。
「描いた本人がその機械の説明したほうが説得力があると言う社長のありがたい言葉がきっかけなんだ」
「ありがたいなんて思ってないでしょう」
冷たい目で洋子はバッサリと切り捨てた。
「でも、名刺には設計と書いてある」
めげずに恭平は言う。さらに胸ポケットから名刺ケースを取り出し、洋子に一枚差し出した。
「でもの意味が判らないし、いらないわ」
弥生と恭平の共通点はこういう訳の判らないところである。慣れている洋子でさえたまに頭を抱えたくなる不可解さだ。もっとも、実際に頭を抱えたことは片手で数えられるほどしかない。
「で、洋子は美紗緒が受験するとこに行くんだっけ?」
話の流れを無視して恭平は名刺ケースを仕舞いつつ言う。美紗緒とは恭平の妹である。
「ええ、そうよ」
急に話題が飛んでもこの二人は気にしない。慣れたとかそんな問題ではない。二人もよくやるので気にかからないのだ。
「鳴星でしょー? 皐月も浩人もだもんね」
ふふんと得意げに弥生は言う。皐月は弥生の妹で、浩人はその幼馴染だ。美紗緒も同様である。
「そのこと知ってるの?」
幼馴染の妹たちは、洋子にとっても妹のようなものだ。妹の幼馴染である浩人も同じように弟のような存在である。だからと言って可愛いかどうかは別だ。
「二人が言っていないのなら知らないわ」
洋子はそういうことを口外するタイプではない。現場で会えば判るのだ、別に言わなくてもいいだろうという考えだ。会って驚く妹たちのことはまったく考慮していない。
「じゃあせっかくだから黙っておこうか」
特に考えもなく恭平は言う。
「いいねえサプライズ」
同様に弥生も頷く。
実際黙って学校で会ったら、どうだろうか? 洋子は目を閉じ考えた。
外見だけ弥生にそっくりな皐月は怒るだろうが、すぐに諦めるだろう。「洋子姉が、事前報告なんてしてくれるわけないよね……」と。
外見も性格も似ていない恭平の妹、美紗緒は驚くだろうが、怒りはしないだろう。そして純粋に気心の知れた人間が近くにいることを喜ぶだろう。
上記二人の幼馴染である浩人は……、一番驚くだろう。二の句が告げないほどに。三人の中で一番一般的な反応を示すに違いない。
「洋子、色んな意味で美紗緒のことをよろしくな」
「絶対嫌」
恭平の申し出に速攻で拒絶する。洋子とて美紗緒が嫌いでも苦手でもない。ただ単に面倒なだけだ。
「そりゃそうだ」
拒絶されたにもかかわらず恭平は軽く笑った。
「皐月は嫌でもよろしくね」
今度は弥生が言う。
「……シスコン」
少し思考してから洋子は言った。
「歳の離れた妹は可愛いものだっ」
少々ムキになって弥生が反論する。
「恭平、どう?」
同じ歳の差の妹を持つ恭平を見る。
「十年くらい前は……そうだな……」
妙にしみじみとした口調に洋子は少し笑った。今の美紗緒は外見こそ年頃の女の子だが、中身は立派な親父だ。度重なるセクハラ発言に親(特に父親)は頭を抱えている。
「皐月は、いくつになっても可愛いの!!」
恥ずかしげもなくシスコン宣言のような発言を弥生は力いっぱいに言う。おかげで店内の注目の的になっている。だが、弥生はもちろん、洋子も恭平もまったく気にしない。
二人は小さく微笑み、弥生を茶化すようなことはしなかった。
知っているから。
弥生が、皐月を守るためなら、なんだってするということを、知っているから。
「その言葉、本人に言ってみろ」
「殴られた」
恭平の言葉に弥生は笑顔で答える。
「照れてるんだ」
皐月本人がいたらきっと、眩暈を起こしていただろう。洋子はぼうと考える。
「そうそう、流行のツンドラって奴だよ」
「ツンダレじゃなかったか?」
「え? トントロ?」
二人とも間違っているのは判るが、洋子も正解を知らないので訂正も出来ない。最も知っていても訂正はしないだろう。
「改めて聞くけど、今の道を進むつもりなの?」
いきなり洋子は話を戻した。馬鹿らしい話題に腹が立ったわけではない。ただ、確かめたかったからだ。
「うん」
あっさりと。
先ほどの戸惑い、迷いなど微塵もない。
弥生は簡単に頷いた。
――当たり前だ、弥生は皐月を守るために今の道を選んだのだから。
洋子は、恭平は小さく笑った。
弥生は、皐月を守るためなら、なんだってする。
「洋子、そのピアス新しいね」
弥生は人差し指をぴっと指す。
「ええ、おばあちゃんに貰ったのよ」
「就職祝い?」
恭平の言葉に洋子はゆっくりと首を振った。
「お礼」
「ああ、また仕事を手伝ったんだ」
洋子が祖母の仕事の手伝いをしているのは、幼馴染である二人は承知している。
赤のピアスを指でなで、洋子は言った。
「これが私の本当の願いを叶えてくれるそうよ」
これって前も聞いたなーと思いつつ弥生は口を開いた。
「そんなに嫌?」
肝心な言葉が抜けた質問に、洋子は微笑んだ。
「絶対嫌」
本気で本当に嫌なんだ、と再確認する二人。
三上洋子は人の本質が、その人を見ただけで判る。大雑把に説明すれば嘘がすぐ判るということだ。裏表のない人間ならば何も問題ないが、ある人間だったら耐え難いものがある。
洋子はそれを嫌がっている。もちろん、幼馴染二人はそのことを知っている。けど、どれほど嫌っているかはいまいち理解していない。
小首を傾げる二人に洋子はため息をついた。
「自分の将来を選ばないくらい嫌。
大体、私の立場だったら嫌でしょう? 例えるなら、そこら辺の酸素や窒素が見えるようなものなのよ」
その例えは何か違うと思いながら恭平は曖昧に頷いた。
――将来を選ばないくらい。
その言葉で二人は言葉の重みを理解した。
「願いを叶えるには相応の対価がいる」
洋子は二人ではなく、空を眺めながら独り言のように呟いた。
「だから私はその対価を払う」
「はあ、それが学校の先生なわけかあ、良く判んないなあ」
洋子の願いを叶えるのは普通の人間では出来ない。が、洋子の祖母は普通の人間ではない、洋子の願いを叶えることが出来る力を持つ特殊な人間だ。洋子は数年前から自身の力について祖母に相談している。その結果が今である。
「まあ、あのばあちゃんの頼みならほいほい聞いちゃうけど」
恭平は洋子のポテトをつまみつつ言う。
「洋子のおばあちゃんっていいよねえ。小さくて、でも暖かくて優しくて、そんで、なんかこう、ほわわんってする」
うっとりとした表情で弥生は言う。
「つうことは、教師生活が鍵なんだろうな」
弥生の反応を無視して、薄汚れた天井を見上げ、恭平は言った。
「でしょうね」
普通の生活とはかけ離れたことが起きるんだろうと洋子は予想する。
祖母がくれたピアスに触れる。
そのときくれた言葉を思い出しながら。
何かが起きることは確実だ。
だったら、それが終わったらまたこうやって集まって報告しよう。
そのときには二人の状況もまた変わっているだろう。
「てことで、皐月をよろしくね」
話の流れを無視した弥生の発言に、眩暈は来ない。
「シスコン」
洋子と恭平は小さく笑い、声を重ねた。弥生は意味もなく得意そうに笑った。
終わったら、報告しよう。
また、この三人で会おう。