〜飯田麻美の一日〜 |
朝、目覚める。
暖かい布団。ここから出ろと言うのは酷い話。
が、起きないと遅刻をする。
…………。
…………。
…………。
学業が、どれほど大事だと言うのだろうか?
確かに日本は学歴社会である。しかし、人の価値はそれで決まるものではない。
何をしたか、で決まるのだ。
なんて屁理屈考えてないで、起きよう。
「きゅう」
音のほうへと首を動かす。
そこにはこの世界で最も可愛い存在がいた。
「んみゅう」
それは私の腕にきゅっとしがみついてくる。
――我が弟、正信だ。
説明するまでもなく、この世界で最も可愛く可愛く、可愛い弟だ。歳は四、可愛い盛りである。無論、年齢に関係なく、正信は可愛い。なぜなら正信だからだ。
「おねえちゃん」
私が起きたことに気づいたのだろう。幸せそうに微笑んだ。天使の笑顔とはこのことを言うのだろう。異論は認めない。
ああ、可愛い。世界の至宝である。飯田家の福音だ。福音ってなんだろう。細かいことはいいや。
「麻美ちゃーん、朝だよー♪」
さわやかな朝らしく楽しそうな母親の声。右腕には弟。
……起きよう。
「……おはよう」
「おはようございます」
布団から正信ごと起き上がり、朝の挨拶。正信は私を見上げると嬉しそうに微笑む。天使の笑顔に心が温まる。
「おはよう♪」
同時に母親が満面の笑顔で突進、いや、抱きついてくる。
「麻美ちゃんおはよー♪」
「おねえちゃん、おはよう♪」
母親に釣られたのか、正信までまた抱きついてくる。
朝から愛が溢れている。世界の幸せ独り占め中。なんて。
起きたら着替える前に朝食をとる。着替えるのが面倒ではなく、朝食後の洗顔で服が豪快に濡れるからだ。ちなみに母親も同じ癖を持っている。当然のごとく母子揃って直したい癖である。
平日の朝食は三人だ。父親はもっと早くに起きて仕事に出かけるから。その代わり夜と休日はみんな一緒である。
「麻美ちゃん、まーくん、おいしい?」
母親は小首を傾げ、尋ねる。まーくんとはもちろん世界一可愛い我が弟、正信のことである。
「おいしい」
母親と同じ笑顔で正信は言う。でも正信の顔は父親似である。つまり、私とまったく似ていない。まあ、半分だけ血の繋がったきょうだいですから。
「麻美ちゃんは?」
豆知識。昔は私は母親に「あーちゃん」と呼ばれていた。変更になった理由は判らない。
「愛してる」
「いやん、私も愛してる」
きっと語尾にハートマークがついていただろう。
これが飯田家の朝である。愛に溢れた美しい家庭の典型でもある。
遠慮せず羨みなさい。
準備をして、母親と弟に見送られ、登校。
最寄の駅までのんびり歩く。朝から走ったりしたくないのでゆとりをもって家を出るのがポイントである。
電車に揺られ学校最寄の駅までぼーっと過ごす。朝のラッシュの時間なのでいつも座れない。念力を使えば座れそうだけど、騒ぎになるだろうからやらない。学校でも同じことが言えるが、まあ、そこはそれはそれ、これはこれ、だ。
約十五分揺られれば目的の駅。自分と同じ学校の生徒が電車から降りてゆく。私も流れに乗って降りる。そしていつも通り何事もなく駅から出る。
学校までの道のりを他の学生と混じってまたのんびり歩く。
「ねえねえ宿題やった?」
「一時間目って英語だよねー。うう、あたしあの先生苦手」
「あー!! 弁当忘れたー!!」
「眠そうだなー。あ、またゲームやってたな?」
平和な会話が聞こえる。
「おー、マイ・プリンセスあさみんじゃないですか」
博の声が後方から聞こえる。振り向く。
「おはようございます」
「……おはよう」
片手を上げ、にぱと笑う博がそこにいた。啓輔がいれば「朝からなにとち狂ったことを抜かしてやがる」というつっこみが入っただろう。だが私は気にしないので問題ない。
博は笑顔のまま私の隣に並ぶ。歩調を私に合わせ、ゆっくり歩く。
私たちは一緒に歩くことはあっても会話はしない。気まずさは感じない。きっと博もそうだろう。
話さないなら一緒に歩く必要はない。けど、話さないからと言って一緒に歩かない理由にはならないだろう。
私たちに会話がないのは別に世間話をするような間柄ではないからだ。
どんな関係だと聞かれたら……それはまあ、面倒なのでまた今度。
「あさみんは啓輔のことどうよ」
ざっくりとした問にはざっくりと答えるに限る。
「……可愛い」
私の答えに博は笑った。
「男の癖に、な」
嬉しそうに、笑う。
心の中で言う。
――あなたも同じことを思っているでしょうに。
そして続ける。
――あなたの可愛いと、私の可愛いは違う。
「む! 前方にいるのは……俺の三上先輩だ!!」
確認するより早く博は走り出していた。
博の背中を見、次に三上先輩を探す。博の進行方向を見ればいるだろう。
いた。一人でてくてく歩いている。私のやよやよ先輩と一緒じゃない。あの二人は近所に住んでいるはずなのに何故一人で登校しているんだろう。
「三上せんぱーい!!」
嬉しそうに大声を上げて博は突進する。三上先輩はちらりと博を確認すると「うわ、やなもん見た」みたな表情を一瞬だけして視線を元に戻した。相変わらず酷い人だ。博ならこう言うだろう。だがそこがいい。
「愛してまーす!!」
同じく登校中の生徒が何事かと博を見る。そして三上先輩を見る。
しかし三上先輩は動じることなくスルー。博も視線をスルー。
博はめげずに三上先輩の隣りにやってくると歯の浮くようなセリフを連発している。
そんなセリフじゃ三上先輩は不快になるだけだろうに。
啓輔と違った馬鹿だ。
授業中。
現在は英語である。
本当に英語を話せるようになりたいのなら本場に放り投げたほうが早いだろう。これはあくまでも受験のための英語だ。誰の人生に役に立つって言うんだろう。教えている教師にしかメリットがないだろう。こんな教科止めてしまえ。
「じゃ、ここ飯田、訳して」
当てられた。やっふー。
「……決してあなたは私の気持ちに気づくことはないでしょう。この雨とともに」
「うん、正解」
根が真面目なので答えてしまった。うかつ。
勉強は嫌いではないが、好きではない。というか、好きな教科はやってもいいけど、嫌いな教科はやりたくない。学生の仕事は勉学だけど、今だけは選んでいたい。
「飯田さん、飯田さん」
隣りの席の女子が泣きそうな顔で私を見ていた。
「……?」
「ここの訳、教えて」
きっと順番からいって近いうちにこの子が当たるだろう。で、この子は英語が苦手ときた。
…………。
…………。
…………。
ま、いっかあ。
根が真面目なのでちゃんとしたのを教える。といってもノートを見せるだけだが。
次の授業。
真面目に受けてしまった反動でやる気なし。
なのでファルコンの大定理について考えてみる。ちなみに今は現代文である。
…………。
五秒も持たなかった。
数学は嫌いじゃない。好きじゃない。真面目にやればそこそこ点数は取れるが、取る意義が見出せない。簡単に言うとやる気がない。
他の事を考えよう。
楽しいこと、面白いこと。
そう、夏子とか。
きっと夏子は私を変な人だと思っているだろう。失敬な人だ。でも否定はしない。
あの双子の幼馴染というだけで苦労しただろう。なのに真っ当だ。普通の神経をしている。そのうちおかしくなるんじゃないのかなあ。あと啓輔と博が近くにいるのも良くない。あの二人って、馬鹿やるときだけは息ぴったりだから、まともな人間が普通に付き合うだけで頭を抱えたくなる。ギャグだって割り切れれば良いけど、夏子はそれは……難しいだろうな。もっと楽に生きれば良いのに。
次に元樹。
シスコン。いつだって風花に振り回されている。でも、風花は……よく判らない。あの子は私のことを好いてくれているのは判るけど……。
次に私のやよやよ先輩。
前に三上先輩が言っていた。
『弥生の敵だけにはなりたくない』
って。どうしてですか? って聞いたら、いつも通り小さく微笑んで教えてくれた。
『怖いから』
次に博。
変態で鬼畜。でも私には敬意のようなものを払っているような気がしないでもない。
ただ、妹の理香と話すと理香が不機嫌になる。兄が嫌いじゃなくて、兄に触れたくないと言ったところだろうか。きょうだい揃って判らない。
次に三上先輩。
たまにすべてを見透かしているような目をしている。啓輔がそれにちょっと怯えている。三上先輩の目よりもあんたの目つきのほうがよっぽど邪悪だ、なんて言ったら傷つくだろう。
実際見えるらしいから面倒だとは思う。でもちょっと眉唾もん。しかしそれを教えてくれたのは私のやよやよ先輩である。信じないわけにはいかない。
最後に啓輔。最後なのはそろそろ昼休みに入るからだ。お弁当万歳。
馬鹿。
…………。
…………。
…………。
これ以上の説明はない。
なので良いところを上げてみよう。
目つきは悪いが努力家。目つきは悪いが人のことをちゃんと考えている。ただし良く空回ったり、見当違いなことをやらかしている。
馬鹿じゃないか。
言動が基本的におかしいという情報から目を背け、考えた結果これだ。なんて酷い人なんだろう。
キーンコーンカーンコーン……
チャイムと同時に思考ストップ。
お弁当だ!!
お弁当をゆっくり食べられる昼休みは大好きだ。
さて、いつも通り元樹のところで食べようか。ちょっと趣向を変えて啓輔たちのところに行こうか。そういえばあの三人はどうして一緒に食べているんだろう? 不思議だ。
それを確かめに行くのも悪くない。が、ここで私が行ったら啓輔がハーレム状態になる。なんというギャルゲだろう。これは是が非でも避けなくてはならない。
よし、元樹のところに行こう。
三組に堂々と入っていく。昼休みなので他クラスなどと気にする必要はない。
すぐに元樹を発見。お弁当を揺らしながら向かう。
「やあ」
本から顔を上げ、爽やかに微笑んだ。元樹は啓輔がいないと普通の少年だ。ああ、あと風花もか。お姉さまが一緒だと変なスイッチが入る。かわいそうに。
「……お昼をご一緒しましょう」
「うん」
本を閉じずに元樹は素直に頷く。可愛い奴め。
近くの空席に座るとお弁当を広げる。元樹もそれに倣う。
同時に箸を持つ。
「いただきます」
声を重ねて食事開始。よく噛まないと胃に良くないので何度も噛む。
しかし元樹は量が多い(私の五倍以上ある)のでさっさと奥に流し込んでしまう。しかも本を読みながらなので胃にとても悪そうだ。
ちなみに私のお弁当は母の手作りで、元樹のは桐生家の執事、鈴村さんの手作りだ。執事って料理も出来なくちゃいけないと彼の存在で知った。
私は食事に、元樹は読書と食事に集中する。
当然無言。
これなら一緒に食べる必要はどこにもない。
はて、どうして元樹と一緒に食べることになったんだっけ?
…………。
…………。
…………。
ま、いいか。啓輔と風花のいない元樹はとても穏やかだ。
食事を終え、箸を置く。
「ごちそうさまでした」
元樹はまだ食べながら読書中。元樹の食事のスピードは普通だが、量が多いので必然的に遅くなる。
特に会話をしながら食べているわけではないので、食事を終えたら暇になる。相手が読書中ならなおさらだ。
よし、出かけよう。
「……散歩してくるわ」
「いってらっしゃい」
視線を上げ、軽く微笑む元樹は可愛い。しかしどうして啓輔にはあんな対応なのだろうか。シスコンだからってよりも……お互い気に入らないんだろう。
いったんお弁当箱を置きに教室に戻る。そうしたら廊下で見知った顔を見つけた。楽しそうにおしゃべりをしている。
「あ、麻美」
「麻美?」
漆黒の髪を持つお嬢様と綺麗な茶色の挑発、違う長髪を持つお嬢さんがいた。風花と夏子だ。この二人はいつ見ても仲良しさんだ。
「今からお昼?」
にこにこと風花が言う。今日は例の子じゃないらしい。
「……いえ、食べ終わって散歩をしようと思っていたの」
「ふうん」
素直に頷く風花と、胡散臭そうな目で私を見る夏子。
「あ、啓輔を見に行けば? 面白いよ」
だがすぐに表情を改め、夏子は言う。何があるって言うんだろう。そもそも啓輔はいつも面白い。おかしいと言っても問題ない。
「英語の小テスト追試の勉強してるの」
「……なるほど、それは面白い」
目的地は決まった。
「そっとしてあげたほうが」
まともなことを風花は言うが、止める気はまったく起きない。
人間には他人を犠牲とした娯楽が必要なのだ。
お弁当箱を置いた後、六組に向かう。
六組は昼休みらしく、大体の人間が友人と楽しげに話しこんでいる。少数の人間は腹が満たされて気持ちよさそうに寝ている。
さて啓輔は……いた。
…………。
…………。
…………。
自分の席に座って、英単語表を広げている。
そして、泣きながら羊羹をバナナのように剥いて食べていた。
……おかしいを通り越してシュールだ。
私は啓輔の元へと歩く。
「……こんにちは」
「へろう」
おお、英語の勉強中っぽく英語で返された。
「…………」
泣いているのは単語が覚えられないからだろう。
でも羊羹は判らない。自分で持ってきた、とは思えない。じゃあ夏子か風花が、ということだろうか。
「べんきょうにはとうぶんがいいって、さっきふうかがくれたんだ」
恐ろしく原始的な食べ方なのは、切る道具がなかったのと、面倒だからだろう。
「……そう」
うん、これは夏子の言うとおり面白い。
ここでふと選択肢が出てきた。
・勉強を手伝う
・放っておいて帰る
・啓輔で遊ぶ
迷わず最後を選んだ。
「……さて問題です」
啓輔は涙を拭い、私を見上げた。
「……足しても引いても掛けても割ることの出来るものはなんでしょう?」
「!?」
啓輔は腕を組み、真面目に考え出した。勉強そっちのけになるところがとても啓輔らしい。
「……では勉強頑張りたまへ」
上から目線で言うと、答えも告げずに私は去る。
「な、ちょ! 待て!! 気になるじゃないか!!」
それが狙いです。
私は、啓輔の悲痛な叫び声を無視して六組を後にした。
よし、これで啓輔は夕方まで追試決定だ。
昼休み終了後、午後の授業を無心に過ごす。そうしたらちゃんとノートとれと地理の先生に怒られた。授業料を払ってもらっている以上、勉強はしたほうがいいが、でもノートをとるとらないは私の自由だ。でも頭にきたので次の試験でいつも通りの赤点ギリギリを狙ってやる。母親はまた泣くな。父親には真面目にやってくれと半泣きされるな。
帰りのHRもてきとーに聞き流す。重要なことだったら誰かが教えてくれるので問題ない。人望の厚さに自分で驚く。
さて、今日は追試もないし、さっさと帰ろうかな。あ、部活なんてのもあったわ。
…………。
…………。
…………。
写真部はいかなる理由があっても部員を束縛しないのだ。
カバンを持ち直し、教室を出る。
廊下に出ると桐生の双子とばったり会い、二人にショッピングの同行してと熱烈に頼まれる。断る理由もないので、お茶一杯で了承した。双子はすごく嬉しそうに微笑んだ。夏子はどうしたのかと聞くとバイトとあからさまに落ち込まれる。しかも二人揃ってだ。君たちどんだけ夏子が好きなんだ。
「じゃあ、行きましょう」
喜びを全身から放ち、風花は言った。元樹も嬉しそうに頷く。この二人は何もかも似てないけど、好きになるものは大体一緒だ。例外が啓輔か。いや、これはどうかな?
うきうきの双子について行く。ついでに携帯チェック。特になし。そうだ、せっかく買い物するんだから正信に何か買ってあげよう。でもお金はないのでそこは桐生の双子に任せよう。ちゃんと後で返しますよ。
三人でショッピングを楽しむ。風花が欲しかったのは初心者向けの料理本で、元樹は好きな作家の新刊だ。私は三十ピースのジグソーパズルを買った。三十は確かな数字ではない。絵を見て選んだから。
それぞれが満足のいくものを手に入れた後、少しばかり高級そうな喫茶店に入った。実際値段がすごかった。私一人だったら絶対に入らないだろう。
楽しくティータイム。桐生の双子は始終楽しそうだ。
帰宅後、母親と正信に歓迎される。正信に帰宅が少し遅れたことを責めれらるが、お土産を渡すところりと態度を変え、抱きついてきた。可愛いので抱きしめ返しておいた。それを見ていた母親が私たちを抱きしめた。たぶん、どっちにも嫉妬したんだろう。この人は私たちが結婚したらどうするつもりなんだろう。
その後、父親がいつ帰ってきてもいいように三人で食事の準備。正信は簡単なお手伝いだが。
帰ってきたら四人で食事。一日の報告をする。この際テレビはつけない。音が邪魔だからだ。
食事が終わったらみんなで片付けて、順番にお風呂。当然、一番偉い私が一番風呂だ。ちなみに最後は父親と正信である。いつも「男同士じゃないと判かり合えないこともあるんだ」といって父親は風呂に入る。そりゃあそうだろうと毎回思い、だが口にせず見送る。
自室に帰り、明日の準備をする。
そこで携帯のランプがぺこぺこと光っているのに気がついた。メールかしら?
件名
わからない
本文
昼のなぞなぞが気になって追試どころじゃなかった。
どうしてくれるんだ。
ちなみに先生にも相談したんだが、答えは出なかった。
答えを教えてください。
差出人は誰だろう?
確認。
あ、啓輔だ。
ずっと悩んでいたんだ。馬鹿だなあ。知ってるけど。
可哀想になったので答えを送ってあげた。
また明日の準備に取り掛かる。それはすぐに終わり、就寝準備へ。
布団に横になり、枕もとの電気スタンドをつけ、読書。
三十分ほど、そうしていた。メールの返事が来ない。
きっと、あまりの答えにぶちギレて暴れているんだろう。まあ、真面目に考えたら怒る答えでしょうね。
問題
足しても引いても掛けても割ることの出来るものはなんでしょう?
答え
数字
啓輔は気が短いから、ね。