ぽつんと一人で音楽室でピアノを弾く。
 昔よく弾いた大好きな曲を弾く。
 久しぶりなのに指は流れるように動く。
 わたしも忘れていないけど、指はもっと忘れていなかった。
 それが嬉しい。
 でも覚えているのはわたしだけ。
 わたしだけ。
 懐かしさに満ちていた心が重くなる。
 暗い気持ちに心が埋まっていく。
 生きた心地が消え失せる。
 希望が失せて絶望と失望が心に満ちていく。
 だから嫌なんだ。
 この曲を弾くのは。

「死にたくなる」




誰かのためのおとぎ話 二年生 12
〜そして彼女は理解した〜




 晴れた昼休み。相変わらず屋上で弁当を食らう。弁当も変わらず風花が持ってきたものである。
 食べる面子も変わりなく、オレと風花と夏子。なんだけど、ここ屋上にいるのはオレと夏子の二人。風花は先生に呼ばれているらしい。風花が何か悪いことでもしたというのだろうか。例えば……授業中に低血糖を起こし、チョコレートを食べる。それを先生に見つかって注意される、とか。これは一大事なのでむしろ保健室に連行されるんじゃないだろうか。
 ならば……学校中の「田中」を「油虫」に変えたとか。オレもやってみたいけど、大変な労力ですぞ!? それをあの虚弱体質の体力不足の風花が……!? そ、そんな馬鹿な! 何で誘ってくれなかったんだ!?
「ちょっと頭の悪い想像するのやめてもらえるー?」

 ごっ!

 頭に硬いものが当たりました。当然ながら頭に痛みと衝撃がぐわんぐわんと響く。倒れるのを堪えて、地面に落ちた硬いものを見た。それはコンクリートの塊でした。成人男性の拳くらいの大きさがあった。当たった箇所を触ってみるが、ぬるりとした嫌な感触はなかった。……どんだけ丈夫なのオレの身体……。てか何で屋上にコンクリートの塊なんて物騒なものがあるんだろう。夏子さんがわざわざ持ってきたんだろうか。それともどこかを破壊して……いや、やめよう。怖いことになる。
 ということで言い訳をしよう。
「誤解だ夏子さん」
「何が?」
「厳密に言うと四階建ての屋上だから五階だと思わないか?」

 ドグォ!

 夏子の蹴りがオレの顔面に突き刺さった。まるで顔面が靴の形に陥没したような痛みがするぜ!
「のおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
 痛みにのた打ち回るオレ! 死なないことを不思議に思うよりこの痛みから逃れることを切に願うオレ! ごろごろ転がってそろそろコードレスバンジーに近くなったんじゃねとふと冷静になるオレ!
 ぴたりと動きを止め、立ち上がった。あと一メートルで自由落下を体験するところだった……。何と言うことだろう。ここまで夏子は狙っていたのだろうか。これならば自殺扱いだから夏子に容疑はかからない。何と言う完全犯罪!
「オレは夏子に殺したいと思うくらいなまでに恨まれていたのか! し、知らなかった!」
「殺したいほどは恨んでいないよ」
「だが、恨んでいるのは事実か!?」
「さりげなく事実確認するよね、あんた」
 ちっ、ばれたか。
「あんた隠し事できない顔だよね」
「ありがとう」
「褒めてはいないけど」
 夏子は呆れる。が、すぐ笑顔になる。機嫌がいいようです。これはいいことだ。少しばかり失礼なことを言っても暴力沙汰にならないのだ!
「ふぐぅ!?」
 な、何故だ!? 何故殴られるのだ!?
「今、すっごい嫌な顔をした」
「そんなことで殴るのですか!?」
 世界の理不尽を感じる。
「だって、ちょっとくらい失礼なこと言っても大丈夫♪ 見たいな顔だったから」
「さっきと言ってることちが――ごうえ!」
 言ってる最中に殴られた! この人鬼じゃないですか! 悪魔じゃないですか!
「夏子よ! 人はぽんぽん殴るものではないぞ!」
「蹴れば良いのね」
「ものすごいいい笑顔で屁理屈を言うな!」
「そうね、啓輔の専売特許だものね」
「神妙な顔で変なことを言うな!」
 ぜーはーぜーはーと肩で息をする。
「風花、時間かかるみたいだから先にご飯食べよう」
 話を誤魔化された。しかもこれ風花がもってきた弁当じゃないか。風花を待つのが筋だと思います!

 ぐううう〜〜。

 空に届け、オレの腹の音!!
「うむ、時間は限られているからな」
「風花の分も残すのよ」
「失敬な、人がご好意でくれる食べ物を残すだなんてとんでもない!」
「そんな発想になるあんたの頭がとんでもない」
「褒めても何もでないぞ?」
「あはは、馬鹿じゃないの?」
 心の底からの明るい声に嘘や冗談がまったく感じられなかった。心が痛くなった。普通に殴られるより心がかなり痛かった。
「いただきまーす♪」
「い、いただきます……」
 夏子さん、笑顔でさらっとオレの心を殺しにくるのはやめてくれないかな……。

 ちゃんと風花の分を残してオレたちは昼食を終える。
 夏子はやはり機嫌がいいようで鼻歌なんて歌っている。……鼻歌なのに上手いってなんですかね。ずっと聴いていたいくらいに上手いんですよ。オレなんて音痴だから小声でこっそり歌うくらいなのに。いえ、たまに自分の部屋で歌に合わせて拳を突き上げ「友と、明日のために――!!」とか叫んで隣の兄ちゃんに「俺も混ぜろ!」大合唱をやってご近所さんに苦情を言われた大家さんに二人してこっぴどく叱られたという、ちょっぴり甘酸っぱい想い出もあるが……。話が変わってね?
 まあともかく、夏子さんはとても歌がお上手だということだ。
 歌……?
 歌、ですか……。
 そういや去年の学校祭あたりに歌で生徒を惑わすセイレーンなんていましたが……。
「…………」
 いやいやいやいや!
 オレも歌声聴いたことあるけど夏子さんじゃないですよー。たぶん。
「時に歌の上手な夏子さんや」
「何それ」
 小さく笑う夏子。否定しないのか。
「一曲歌ってください」
「は?」
 目を点にしてオレを見る夏子。まあ突然のリクエストだからな。
「うん……まあいいけど」
 いいのか! オレが驚いたわ。
 そんなオレを見て夏子は笑った。……何かを悟ったように。それを見てオレもまた悟った。
 夏子はちょっとだけかなしそうに微笑むと歌い出した。
 それはいつか聴いた歌だった。
 学校祭が終わって理香と校内を走り回っていたときに聴いた歌だった。

 歌い終えた夏子の表情は吹っ切れたように爽やかだった。
「英語の歌詞ゆえ、ぼくには理解できませぬ。訳をお願いします」
「『あなたのおかげで私は自由というものを知りました。ありがとう』ってとこかな」
 どこかで聞いたフレーズだった。
 風が吹いて、夏子の長い髪がさらさらとなびく。重くない沈黙があたりを支配した。
 夏子は空を見上げ、つぶやいた。
「音楽を本格的に勉強するのって、お金がかかるのよ」
「うん」
「生きるために必須のものじゃないし、金持ちの道楽って言われるくらいだからね」
「うん」
 夏子は返事を求めていなかったが、オレは相槌を打ち続けた。
「だから一般家庭が追うにはちょっと険しい夢なのよ」
「そうか。大変だな」
「そ、大変なのよ。自由になるのも、大変なのよ」
 それがどういう意味か、頭の悪いオレでも理解出来た。
 まあそうだよな、親との関係なんてすぐに変わるものでもない。
「しかし風花遅くないか?」
 話は終わりだというサイン。
「そうね、何してるんだろ」
 夏子は笑顔で受け取ってくれた。
「ふむ、悪辣な教師に捕まっているやもしれんから、勇者が救いに行ってくらあ!」
「勇者……魔王の間違いじゃない?」
「人相的に考えたな! 酷いや酷いや!」
 勢いよく立ち上がって抗議した。したら携帯電話が落下してオレの靴に当たってぱかりと開いた(オレの携帯電話はスマホなんて高価なものじゃないのだ)。そして夏子のほうへと一回だけ跳ねた。なんで落ちるんや……と見守っていると、夏子が拾ってくれた。
「あれ、メール着てるじゃない」
 ――あ。
 見てないメールなんて、あれくらいだ。
「バイトのだったらどうするのよー」
 夏子が親切心で言う。
 待て。待ってくれ。それは違う。違うんだ。それは、オレが見たくないから見ていないメールなんだ!
 それを言うより早く、
「んっと」
 夏子は人の携帯電話だってのに素早く未読メールを開いた。
「え」
 それを見た夏子の身体が硬直する。
「え……」
 オレの携帯電話を握り締め、硬直する。視線はその小さなディスプレイに釘付けた。
 少し強めの風が吹いて、夏子の長い髪が大きくなびく。
 風に乗って埃が舞って、オレの目に入ってしまった。オレは慌てて目を閉じて何度も何度も瞬きを繰り返して目の中の異物を出そうとする。
 涙で異物を出し、改めて夏子を見た。彼女はディスプレイを凝視したまま口を開いた。
「あんたさ、本当にあたしのこと、覚えてない……?」
 前にそんな話をしたっけ? どっかで見たとか何とか言ってたな。
「? いや、覚えてないというか、高校生になって初めて会ったはずだけど……」
 けど、夏子みたいな美人はちっさい頃に会っても印象深いからきっと忘れないと思うから、違うと思う。
 オレの答えに夏子は携帯電話から顔を上げた。そして恐ろしく硬い表情でオレを見た。
「本当に?」
「そんな嘘吐かないよ」
 第一メリットがない。
「――ああ、そっか」
 夏子は硬い表情のまま、何かを悟ったようなことを言った。直後、彼女の顔が怒りに歪んだ。突然の変化に息を呑んだ。
「何で――! 何で!!」
 つかつかとオレの元にくるとすぐさま胸倉を掴まれた。オレの目に臆することなく真っ直ぐ睨みつけてくる。
「何で――あんたは――あんたがそんなんだから!!」
 全力で怒りをぶつけてくる夏子。
 訳の判らない事態で、こんな状況なのに、オレはオレの目に怯えない夏子を好ましく思った。
「今まで風花がどんな気持ちで過ごしてきたか、何も知らないで――!!」
 けど、その名前に一気に現実に引き戻された。
 ――風花?
 三上先輩から来たメールに、何で風花が関係あるんだ? つかそもそも夏子は何に怒っているんだ? オレが夏子のことを覚えてないことを怒っているのか? 会ったこともない人を覚えているっておかしいだろ? すごい理不尽を感じる。
 けど、夏子は本気で怒っている。
 しかも、風花のために怒っている。
 原因はオレ……らしい。
「ちょっと待ってくれ、お前何のメール見たんだよ?」
「何って――」
 また強く、キッと睨まれた。
「――――っ」
 携帯電話のディスプレイを見て、奥歯をかみ締める音が聞こえそうな表情をして、苛立つ声で言う。
「三上先輩からのよ!!」
 胸倉がさらに強く掴まれる。そのまま締め上げられる。いや、待ってやばい。夏子が力任せにきたらオレは本気で死ぬ。
「――なっちゃん、いいの」
 荒れた空気の中に清涼の風が吹く。
 激昂する夏子を止めたのは風花だった。風花は穏やかに微笑み、オレの胸倉を掴んでいる夏子の手にそっと手を重ねていた。
「――――っ!」
 怒りとかなしみがごっちゃになった表情で夏子はオレから手を離す。けどまた強く睨まれた。
 夏子はオレの携帯電話を勝手に操作すると投げつけてきた。
「勝手に見たのは悪かった、ごめん」
 謝罪しているのに、こちらをちっとも見ていないし、憮然とした表情なので理不尽しか感じない。
「さっきのメール、判るようにフラグつけといたから」
 親切なのかどうか、さっぱり判らん。
 そっぽを向いて不機嫌な表情を隠さない夏子。オレはどうしたらいいかさっぱり判らない。困って風花を見れば先ほどと変わらず、場違いなまでに穏やかに微笑んでいる。
「理不尽だって判っているけど、怒鳴ったことは謝らない」
 また夏子は真正面からオレを見据え、この世の憎悪をすべて背負ったような表情をしてオレを睨みつけた。……さすがのオレも、ちょっぴり怖い。
 夏子はその表情のまま右手を振り上げて、オレの顔面目掛けて振り下ろす――!?

 ――ぱちん!

 けど、頬に感じた痛みはまったくなく、軽い衝撃しか受けていなかった。
「へ?」
 意表を突かれたオレの声が酷く間抜けだった。
「これ以上風花を泣かせたら、数倍にして同じことをする」
 ――死の宣告だった。
「じゃあね」
 死の恐怖に硬直するオレとふわんふわんな風花を置いて、夏子は屋上から去って行った。

 オレはそれをぽかんと、風花は笑顔で手を振って見送った。
「訳が判らないんだが」
「そうでしょうね」
 そういうと風花はとことこと弁当の元へと歩き、シートの上に座った。
「いただきます」
 手を合わせ、食事開始。マイペースだ……。オレは釈然としないまま、風花の元へと歩き、近くに腰掛けた。
「風花は何で夏子が怒ったか、理由判る? というか、どこから聞いてた?」
 そうだ、いつから風花は話を聞いていたんだろう。でないとああも冷静に夏子を止められないだろう。
「なっちゃんが急に怒ったあたりから」
「ほとんど聞いてたんじゃないか」
 だったらさっさと止めてくれてもいいじゃないか。
「階段室でも聞こえるってすごい大声だよね。グラウンドまではさすがに届かないとは思うけど」
 ぐぬぬ。
「なっちゃんが怒った理由はもちろん知ってる」
「教えてくれ」
「メール見れば?」
 風花はちらりとオレを一瞥し、食事を進めた。オレがそれを出来ないと判っていて言ってやがる……。
「じゃ、じゃあ、夏子の怒りは正当だと思う? 風花が夏子の立場だったら風花もオレに対して怒る?」
 風花は食事を止めた。箸を置き、オレを無機質に見た。
「殺してる」
 淡々と。
 無表情で。
 それだけを言った。
 硬直しているオレを無視して食事を風花は再開する。
 しばし沈黙が続いた。
「安心して。わたしはなっちゃんじゃないし、なっちゃんもわたしじゃないから」
 夏子はどんなに怒っても殺したりしないから大丈夫だよ、という意味。
 そういうことでも……あるけど、そういうことじゃないんだよ、風花……。
「殺人は犯罪だぞ……」
「啓輔は犯罪だから人を殺さないの? わたしはそうね、殺すリスクが高いから殺さないだけだけど。だから、犯罪だからという理由と一緒ね。
 ね、啓輔。人が人を殺さない理由って倫理観の問題だよ。殺されたくないからとかという理由もあるけど、そんなことしちゃいけないっていうのが根本的にあるの。
 でも、啓輔は違うの?」
 ぎょっとした。
「人殺しなんてしていい訳ないだろ!?」
「……ああ、ごめんなさい。冗談なの」
 だとしたら物騒すぎる。重すぎる。それにしては目が据わっている。
「啓輔はなっちゃんの言っていたこと、気なるでしょう?」
 当たり前だ。オレは無言でうなずいた。
「じゃあ、一緒に確かめましょう。メールを見るのが一番手っ取り早いかもしれないけど、それは最後ね」
 さらっと軽く風花は言う。夏子の怒る理由がどうして三上先輩から来たメールに書いてあるって言うんだろうか。
「風花、何でそんなことが判るんだ?」
「あれ、言ってなかった? わたしにも同じメールが着たから」
「へ?」
 …………。
 …………。
 …………。
「え?」
 お互いにぽかんと顔を見合わせていた。
「言ってなかったとして、これだけ言っていれば予想くらいついてると思ってた……」
 心底馬鹿にした口調や表情ならまだ救われていたと思う。でも風花は本当に呆気に取られていた。「そのくらい判ってたでしょ?」と言われたようなものなんだ。んで、オレはちっとも判っていなかったというわけだ。
「そっか、啓輔だもんね」
 ああ、しみじみ悟られた! オレが馬鹿だと悟られた!!
「うん、いいの。気にしないで。もったいぶってたわたしも良くなかったと思うし」
 余計にかなしく――惨めになるので慰めないでほしい。
「えーと、えーと。風花は何故遅れてきたんだね?」
 必殺話題変更!
「ん、えーと。音楽室に用事があったの」
「風花、音楽だっけ」
「うん」
「なるほど」
 音楽の先生に呼ばれていたのか。
「ピアノ弾いてたの」
「へー、そういやお母さんに習ってたって言ってたっけ」
「死にたくなった」
 空気がまた固まった。
「啓輔は、啓輔のお母様はどうしていらっしゃるの?」
「あ、え。あの、話の関連が――」
「どうしてるの?」
 視線は動かさず、首をかしげて風花は問いかけてくる。その姿に薄ら寒いものを感じて、背筋がぞくぞくした。
「か、母さん? オレの、母さん……」
 母さん、えっと、親父と離婚してから、会ってなくて、知らない。しらない。シラナイ。
「うぐ?」
 頭が痛い。すごく痛い。
 前にも母さんのことを思い出そうとしたら頭が痛くなった。
 痛い。痛い。すごく痛い。硬くて尖ったものを頭に突き刺されたような痛み。まともな思考が出来ない。
「苦しいの?」
 上から風花の声が降ってきた。
 オレはいつの間にか頭を抱えてうずくまっていた。でも母さんのことを思い出そうとしていた。
「どうして苦しいの?」
 かあさんのことをおもいだそうとしたから。
「わたしは、あなたにひどいことをする」
 風花の声が降り注ぐ。
「あなたからひていされ、きょぜつされてもしかたがないことをする」
 風花の手がオレの背中に触れている。風花の熱がオレに力をくれる。頭痛に負けないように気張る力を分け与えてくれる。
 オレはムキになって母さんのことを思い出そうとするが、何も思い出せない。
 離婚したときを思い出そうとするが、白い靄がかかって何も見えない。激しいノイズでそのとき聞いた会話が聞こえない。
 けどそんな中で風花の声ははっきりと聞こえた。
「だから、確かめよう。啓輔の、お母様のことを」
 頭痛が一層激しくなった。



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