翔くんとやよ先輩 
〜番外編〜




 慣れない土地でも一年以上も住んでみれば、結構慣れるものです。それが例え、オーストリアという外国であっても。
 そりゃあ最初は大変でした。言葉が違うし、生活様式だって違う。気候も違う。
 ぼくが一番大変だったのは言葉でした。オーストリアへ引越しが決まったときから独学でドイツ語を勉強していましたが、付け焼刃にもなりませんでした。言ってることが判らないし、ぼくの言うことも理解されませんでした。
 学校は日本人学校だったので普通の勉強は大丈夫でした。しかし、外を出ればドイツ語です。とたん、困ります。外に出なければ生活には支障ありません。しかしぼくは場所を、国を変えても走ることだけは続けたかったので、外に出ないわけにはいきませんでした。
 そのことをお父さんもお母さんも判ってくれていたので、家では極力ドイツ語を使うようにしました。お父さんは仕事で使うし、お母さんも早く覚えたがっていました。
 けどぼくは、新しい土地をすぐにでも走りたかったので、言葉が判らないまま外に出てしまいました。

 外に出て走るぼくはちょっと珍しい存在だったようです。ただジョギングする人はいます。けど、日本人の子供が、となると珍しさが上がるようです。ぼくらが引っ越してきた場所はいわゆる「日本人街」というところでしたが、少し離れていてすぐに現地の人が住む場所へと行ける場所です。ぼくは知らずうちに日本人街から出て走っていたので、現地の人にとっては珍しい存在になっていたようです。
 けどぼくにはそんな自覚はありませんでした。だから突然話しかけられてよく驚いていました。
 思うように言葉が通じなくても、ぼくは必死に身振り手振りで伝えようとしました。その姿が良かったのか、言葉が通じなくても話しかけてくる人が増えました。ぼくは彼らの言葉を理解したくて一生懸命聞いて、話してドイツ語を覚えようとしました。彼らもそんなぼくに付き合ってくれました。
 おかげで友達も出来たし、家族で一番早くドイツ語を日常会話くらいならこなせるようになりました。

 二年ほどドイツ語を使っていると、日常会話はもちろん、ちょっとした難しい会話も出来るようになります。けどやっぱり使い慣れているのは日本語だから、学校での会話が一番気楽です。
 でも……日本人学校の人たちよりも、現地の友達のほうが気楽に話せました。なんとなく学校の人たちとは馬が合わないからです。変に気を遣うというか、なんというか。話すたびにため息をつかれたらちょっと嫌です。なのでそうならないように気を遣っています。それが疲れるので、それがない現地の友達は気楽でいいです。

 日本人よりも現地の人との付き合いが気楽になって、当たり前になってきた頃に、ぼくは一時帰国できることになりました。まあ、お正月だったからなんですけど。
 それを真っ先に伝えたのはもちろん、やよ先輩でした――


 久々の日本は寒いです。お正月なんだから当たり前です。いえ、今日は十二月二八日なのでお正月ではありません。それでも寒いです。
 けど、心はあったかです。何故なら今はやよ先輩を待っている時間だからです。
 久しぶりです。やよ先輩と会うのはお久しぶりです。
 やよ先輩は何度かこっちに来てくれました。ぼくも何度か帰国しています。それでも再会できるのは嬉しいんです。
 るんるん気分で、よく待ち合わせをした駅前です。
「しょーーーーーーーーーーーーーーくーーーーーーーーーーーーーーーーーん!!!!!!!!!!!」
 やよ先輩が相変わらず人目を憚らずに大声上げてぼくに向かって走ってきます。ぼくは右手に持っている少し大きめの長方形のケースをぎゅっと握りなおしました。
「やよ先輩!」
 ぼくも駆け寄ります。あと一メートルというところでやよ先輩はぼくに向けてダイブしてきました。ぼくはとっさの判断でケースを地面に置きます。そしてやよ先輩の身体をしっかりと抱きとめます。来年でぼくも高校三年生、このくらいの芸当が出来るくらいに成長しました。
「翔くんだ!!」
 至近距離といっていい距離でやよ先輩はぼくに向けて微笑んでくれました。高校三年生らしく、少しだけ大人びた風貌の、中学生のときとなんら変わりのない表情で。
 ぼくは嬉しくなってやよ先輩をぎゅっと抱きしめました。
「わはは、翔くんちょっと痛いぞ!」
「わ、すみません」
 慌てて開放するとやよ先輩はニカっと笑顔を見せてくれます。
「いいのだ! いやっほう、久しぶり! わーい翔くん!!」
「はい、お久しぶりで嬉しくて嬉しくてどうしようやよ先輩、お腹空きました」
「よろしいならばそこいらの飲食店に突撃だ! これより我が軍は特攻をかける! 我に続け!!」
「あ、あそこにファミレスありますよ」
「じゃ、そこにしよっか」
 高校生になるとバイトが出来るので、ちょっと贅沢できるのがいいですね。ぼくは長方形のケースを拾いました。
 ぼくとやよ先輩はファミレスに向かって歩き始めました。
「翔くん」
 隣に並んだやよ先輩を見下ろします。……ああ、ぼく大きくなったんだな。
「手」
 やよ先輩は真冬だって言うのに手袋をしていましせんでした。それはぼくも同じです。
 ぼくは小さく笑うと差し出された手をきゅっと握り締めました。
 やよ先輩は嬉しそうに微笑んでくれました。


 ファミレスに入って昼食です。作ってくれた人に失礼なので、食事中は二人とも無言でした。
 デザートに入ってようやく喋るために口を開きます。
「チョコレートフォンデュってチョコの味しかしないよね」
「そうですね」
 やよ先輩が食べたのはカレーライスでした。ぼくはハンバーグです。今食べているのはやよ先輩がチョコレートパフェで、ぼくはココアをいただいています。
「でね」
 と続く言葉は十中八九、前の話は無関係です。
「前も話した部活の後輩くんがさ、面白い子でさ」
「ああ、目つきは悪いけどって人ですね」
「うん、そう。面白いけど目つきが悪いんだよねけけくん」
 恐らくやよ先輩だけに呼ばれているであろうあだ名に、会ったこともないけけくんにむっとしました。
「初めて見たときはびっくりしたね。内心。ほら、私先輩だからそーゆーことを表に出さなかったわけなのだよ、傷ついたら部活に入ってくれないじゃん困るじゃん」
「下心だらけですね」
「ありがとう」
 褒めてはいません。けど、部員確保は大変そうです。やよ先輩は二年生のときから部長をやっているのでもっと大変です。
「そいや、翔くんは部活やってないんだよね」
「はい、学校は勉強だけです」
「流行のアレだな、俺には帰るべき家がある!! 帰宅部って奴だ」
「そうですね。学校の人たちより外で会う友達といるほうが楽しいですから」
 学校にも友達はいますよ。けど外の友達のほうが楽しいです。やよ先輩は比べるのが馬鹿らしくなるほど楽しいし嬉しいです。
「走ってるの?」
「もちろん」
 だよねと言いたげにやよ先輩は頷くとパフェを一口ぱくりと食べました。
「あと楽器を始めました」
「カスタネット?」
「いいえ」
「トライアングル?」
「違います」
「和太鼓!」
「どうして全部叩く楽器なんですか?」
「楽しそうじゃない。で、答えは何?」
 それもそうかと納得しました。
「トランペットです」
「なんだ、カスタネット惜しかったじゃん」
 最後の「ット」だけですね。
「でもどうして始めたの?」
「現地の友達に、ぼくは陸上をやっているから肺活量もあるからどうだって」
「ふーん」
「あと、ウィーンは音楽の街だから」
「へー?」
 興味なさそうというより、よく判っていない顔です。
「ウィーン?」
 動きを止め腕を組んで天井を見上げた。ぼくも見上げてみる。天井を見るときは大体数学の時間です。……そんなことないです。
「ああ、ああ! くらしっくのほんばだね」
 とても実感のない声でした。
「はい、だからってだけじゃないですけど、誘われました。面白そうなので始めました」
「ご両親は何も言わなかったの?」
「まともに演奏できるまでは家で吹かないでくれと」
 やよ先輩は何度も頷きました。
「そいで今はどうなんだい?」
 その問にぼくはちょっとだけ胸を張りました。


 最初からぼくの演奏を聴かせるつもりだったのでトランペットは持っていました。長方形のケースがこれなんです。しかし、持っていたのにやよ先輩は指摘してきませんでした。たぶん、気づいてすらいないと思います。さすがです。
 でも……今の季節は冬。寒いです。しかも今日は風が強めです。寒いです。困りました。
 ぼくが困っていると、やよ先輩は不敵に微笑み、ぼくの手を取りずんずんと歩き出しました。よく判らずぼくはついていくだけです。
 たどり着いた場所は学校でした。ぼくらが通っていた中学校ではありません。
「ここってやよ先輩の高校ですか?」
 もちろん、やよ先輩が運営しているという意味ではありません。
「そうなのだ! よって中に入ろう」
「部外者は入っちゃ駄目なんじゃないでしょうか?」
「私に関係ないものなんてないんだよ!」
 かっこ良いセリフですが、ピントがずれているような気もします。

 堂々と生徒用の玄関から入り、堂々と来客用のスリッパをやよ先輩は取ってきました。ぼくはありがたくそれを使わせてもらい、中に入ります。
 どこで演奏しようかなと考えていると、やよ先輩は迷いのない歩みでずんずんと進んでいきました。ぼくは慌ててついていきます。
「どこへ行くんですか?」
「部室だよ」
 軽く答えられますが、ぼくはやよ先輩が所属している部活を知りません。
「何の部活に入っているんですか?」
「あれ、言ってなかったっけ? 写真部だよ」
「…………」
 そういえば、そんなことを言っていたような……。手紙にも写真部に入ったよーという文章を見たような。というかさっきも部活の後輩の話をしていました。
「いや、何回か言っている。翔くん、この歳でもうボケか。痴呆かアルツか」
 立ち止まり、振り返ってわざわざやよ先輩は言った。
「…………」
 酷い言い方ですが、ぼくもすごい度忘れなので反論できません。
「今は認知症と言いますよね」
「それだ!」
 互いに納得してまた歩き始めました。

 当然ながら写真部の部室、暗室のドアには鍵がかかっていました。鍵は職員室にあるそうです。取りに行くのかと思いきや、やよ先輩は丈夫そうな針金を取り出すと迷わず鍵穴につっこみました。そしてがちゃがちゃと動かすとカチリと軽い音がしました。
「はい、どうぞ」
「はい、ありがとうございます」
 これってピッキングっていう技術じゃないんだろうか。
「酢酸くさい部屋で悪いけど、暖房はあるからさ」
「はい、ありがとうございます」
 やよ先輩ってすごい技術を持っているんだなあ。

 暗室はとても散らかっていました。写真部なのに野球に使うバットが何本かありました。剣道で使う竹刀も何本かあります。バレーボールもバスケットボールも、ついでにラグビーのボールもあります。
 どうしてあるのか聞いたところ、
「グラウンドや体育館等で倒れていたところを保護してあげた」
 という心温まる答えをもらいました。優しい部活です。
 少し休んだ後、ぼくはトランペットを取り出しました。やよ先輩は目をきらきらさせて見つめます。
「触ってみますか?」
「それは翔くんの演奏を聴いてからね!」
 子供みたいな笑顔にぼくの顔からしまりがなくなりかけましたが、きりっと持ち直して、トランペットも持ち直します。
 大きく息を吸い込んで、酢酸臭くて一回むせます。けど、気を取り直してもう一度大きく吸い込んで、トランペットを奏でました。

 やよ先輩に聴かせるため、何より驚かせるため必死に練習したこの曲。
 展覧会の絵〜プロムナード〜
 親には続きも演奏してくれと何度も言われたけど、ぼくは頑なにプロムナードしか吹きませんでした。トランペットが目立つからここが好きなんです。
 ぼくの演奏を聴き終えたやよ先輩は笑顔で拍手をくれました。
「美術館の絵だね!」
 おしい。
「展覧会の絵です」
 豪快に間違えるやよ先輩が大好きです。
「うわあすごいねえ翔くん! うわーうわートランペットだよ? うわあ! いい? 触ってもいい?」
「はい、どうぞ」
 楽器を他人に貸すというか、触らせるという行為はぼくは好きではありません。たぶん、楽器を持っている人はみんなそうだと思います。修理の業者の人は別ですが。
 けど、やよ先輩なら大丈夫。まったく問題ありません。ぼくが心配することなんて何もないです。
「うわあああああああ、楽器だよー」
 やよ先輩は生まれたての赤ちゃんを扱うように、ものすごく大事にぼくのトランペットに触っています。そのまま渡したのですが、何故かケースに仕舞ってそこから触っています。
「手に持ってもいいんですよ」
「落としたらやだもん」
 ぼくの大事なものを大事にしてくれるやよ先輩が大好きです。ぼくの顔から自然と締りがなくなっていきます。
「吹いてみますか?」
「いいの?」
「はい」
 やよ先輩はキラキラした目でぼくを見ました。

 やよ先輩にトランペットを貸しました。しかしなかなかうまく音が出ません。吹きかたを何度も何度も教えましたが、やよ先輩もぼくの言うとおりにやってくれましたが、音は出ませんでした。
「うーん、私にはこの手の才能はないようだ」
 若干しょんぼりした顔で返してくれました。
 こんな顔をさせるために貸したんじゃないのに。ぼくまで落ち込んでしまう。
「けど、代わりに翔くんが吹いてくれるからそれでいいや」
 さすがやよ先輩、すぐに元気になった。
「翔くんはずっと続けるの? 仕事にするの? 走るのはどうするの?」
「どちらも趣味です」
「そっか。そだよね」
 正直なところ、将来のことは真面目に考えてはいません。ただ、走ることもトランペットも趣味として続けていきたいとは思っています。
「私はね」
 やよ先輩は真剣な目で、ぼくを真っ直ぐに見つめました。
「――私は、弁護士になる」
 何度か聞いた言葉でした。
 けど、こんな真剣に言われたのは初めてでした。
「私には、守りたい人がいる。弁護士の力がそれを叶えてくれるかは判らないけど、私は叶えてくれるって信じてるから、なる。それを、目指す」
「はい」
 ぼくは頷く。
 そこで思いつく。弁護士って大体秘書がついているはず。
「先輩、そしたらぼくが秘書になります」
「おお、そっか、弁護士には秘書がつき物だよね。前に行ったことある弁護士先生の事務所の受付に秘書さんがいたよ!」
「でしょう? だからぼくがなりますね。先輩を支えます」
 何で素敵な将来だろう。でも秘書になるのってどうしたらいいのかな? 大学……どこの学科に進めばいいんだろう。
「あーでも、家も仕事も一緒だと飽きてくるよ、そこは違うほうがいいよ」
「ぼくはやよ先輩となら平気ですけど……うーん、でもいつも一緒じゃ確かに飽きるかもですね。じゃあぼくは違う仕事にします」
 ちょっとしょんぼりします。ぼくはずっとやよ先輩と一緒がいい。
「別々のほうが一緒にご飯食べるときに色んなお話が出来て楽しいよ」
 それを想像してみる。楽しそうだと思いました。それに会えない分、嬉しさが増すと思いました。うん、ならこれでいいです。
「じゃあぼくはやよ先輩が遅くに帰っても晩御飯だけは用意できるように、定時で帰れる仕事にします」
「そんな仕事あるのかな?」
「判りませんけど、頑張ります」
「うん、お互い頑張ろう!」
 やよ先輩はぼくの手を両手で握り締めました。ぼくも両手で握り返します。
「頑張りましょう!」
 うん、と二人で大きく頷きました。
 ……やよ先輩の秘書も、やっぱり捨てがたいな。

 それからぼくらは暗室から出て校内を見回りました。探検です。
 生徒が多い学校なので広いです。体育館は最大で三つのクラスが同時に授業が出来るそうです。すぐ近くに格闘技場もありました。そこから怪鳥みたいな奇声が聞こえてきました。やよ先輩が剣道部だと教えてくれました。もうすぐお正月だってのに練習とは変態だなとやよ先輩が言っていました。
 色々見回りました。書道室も美術室も音楽室も見ました。寒いけど屋上にも行きました。何故か鍵が壊れていました。鍵というか扉自体が壊れていました。それにやよ先輩は驚いていました。ここはいつも鍵がかかっているそうです。普通そうですね。それにここの学校の屋上には転落防止用のフェンスがないそうです。危ないから気軽に行くところじゃないところなのですが……。
「変なの。壊れてるなら直せばいいのに」
 二人で首を傾げました。まあおかげで屋上に上がれたんですけどね。


 それから学校を出て、近所の喫茶店に入ってのんびりしてました。
 晩御飯の時間が近くなったところで別れることにしました。
「楽しかった」
「ぼくもです」
 やよ先輩の笑顔を見て、トランペットのケースを持っていないもう片手、やよ先輩の手を握るぼくの手を見ました。
 それに気づいたやよ先輩は少し照れくさそうに微笑みました。
 手から伝わるやよ先輩の熱と、胸のどきどきで身体はほかほかです。
「翔くん、ありがとう」
「?」
 お礼を言われるようなことはしていない、と思ったので首を傾げました。
「うん、会えて嬉しくて、翔くんの演奏聴けて嬉しくて、私の決意を聞いてくれて嬉しくて、ありがとうなの」
「はい」
 面と向かって言われると、照れくさいです。
「だから、ありがとう」
「はい」
 その感謝を、ぼくは正面から受け止める。やよ先輩からもらえるものすべて、受け取りたいから、こぼしたくないから。
「ほいじゃ、帰ろうか」
 ぼくらは帰り道を取り留めない話をしながら歩きました。
 ずっと、別れるまで手をつないだまま。


 判れた後、ぼくはつないでいた手を見ました。
 まだ熱が残っている、気がします。
 その手を何度も握っては開きます。
 うん。
 今日判ったことがあります。
 ぼく、やよ先輩のことが大好きです。
 ぼくはやよ先輩のことが好きって知ってたんですけど、大好きだったってことは知らなかったんです。
 だから、驚きです。
 新鮮な気持ちでいっぱいです。
 いつかちゃんと言おうと思います。
 いつがいいだろう?
 うーん。
 それは今後の課題かな。



面白かったら押してください。一言感想もこちらに↓


前へ



翔くんとやよ先輩トップへ
てけすとっぷに戻る
トップに戻る

inserted by FC2 system