その姿はみすぼらしくて、とても無様でした。
でも、ぐちゃぐちゃに泣きながら這ってでも前に進もうとするその姿は、
――この世界で一番カッコ良いと思いました。
〜『がんばれ!』〜 |
――雨が降っている。
雨だ。雨だ。冷たい雨だ。
アスファルトの道路を無感動に叩きつけ、漆黒に染める雨が降っている。
目を閉じた、真っ暗な世界にも雨が降る。
真っ暗な世界に雨が降る。
雨だ雨だ雨だ雨だ雨だ雨だ雨だ雨だ雨だ雨だ雨だ雨だ雨だ雨だ雨だ雨だ雨だ雨だ雨だ雨だ。
雨が降っている。
信号機の、赤い光が差し込んでくる。
赤い光が雨に反射する。
雨は好きじゃない。
いやなかんじがする。おおきなおとがして、なにかがこわれるきがする。
気のせいだ。
気のせいだ。
そんなの気のせいに決まってる。
『ね、啓輔。
メール見た?』
暗闇の中で、雨に濡れた風花がぼうっと浮かび上がる。そして無邪気に微笑んで、オレにそう問いかける。
『どうして見ないの?』
雨に濡れた風花は、雨を滴らせながら返事を聞かずに畳み掛ける。微笑んで。
頬をぬらすのは涙じゃなくて雨だ。けど、どうしてかな、風花、雨に濡れてるだけなのに、泣いているように見える。
『どうして?』
雨に濡れて、泣いているように見える風花。そんな風花なんて見たくない。
それに、そんな問に答えたくない。
オレは目を開けた。
現在時刻、午後五時調度。
当然ながら放課後。掃除当番もとっくに帰った自分の教室。バイトもなく、補習もない。帰るだけの放課後。
なんでオレはさっさと帰ればいいのにこんな時間まで学校にいたのか?
なに、簡単な話だ。傘を持ってきていなかったんだ。
昨日の雨は今朝には止んで、昼を過ぎた頃から降ってきただけなんだ。オレは雨なんて降らないと思って傘を持ってこなかった。ま、チャリだしね。
雨が上がるまで学校をふらついていました。部活に出ればよかったかな。それも……いやだな。麻美がいるじゃないか。
昼休み、オレは風花と夏子を迎えに行かないで、教室でパンを食っていた。
そのとき麻美に言われたんだ。
『……逃げ回っていると、そのうち身動きが取れなくなるわよ』
意味が判らない。けど、背筋に冷たい汗がつーっと流れ落ちた。
ま、何事もそうだよな。嫌なことから逃げ出しても、後になってもっと嫌なことになって帰ってくる。だったら今立ち向かったほうが良い。
「…………」
それが出来たら苦労はしない、と思う。
がらがらがら
教室の扉が開く音がして、誰かが入ってきた。先生かな、と思ってほけーと視線を上げたらちびっ子がいた。
「った!」
眉間に何かが当たって痛い。おのれ、ちびっ子め、小馬鹿にしたことを考えればすぐにこれだ。エスパーか!
「エスパーか!!」
「訳が判りません!!」
「ったああああ!!」
また何かを眉間にぶつけられたよ!! 酷いよこの人!!
「だから何をするんだ、理香!」
「放課後の教室で一人たそがれている啓くんをスーパーボールで狙撃しました」
「誰が懇切丁寧に説明しろと言ったんだ」
「啓くんです」
「人の心を読むな!」
「いえ、立派に口に出していました」
「なんだとう!」
拳を振り上げ、しかし勝てる相手ではないと悟り、拳の下げる先を見失ってしまった。
「ふぉーーーーー!!」
仕方ないので吼えてみた。
「…………」
理香が! 恐ろしく冷たい目でオレを見ている!!
「ところで、理香よ。何でこんな時間まで学校にいるんだい? 雨が上がるのを待っていたのかね?」
そんな目で見られて喜ぶような趣味じゃないのでオレは話題を提供し、誤魔化した。
「いいえ、違います。探してました」
「何を?」
オレの問に理香は口を開きかけ、首を傾げた。
「啓くん、なんか落ち込んでますね」
疑問の言葉ではなかった。確認の言葉だった。基本、隠し事が苦手なオレ。少々付き合いの長い理香に嘘を吐いてもすぐにばれる(そして怒られ、しばかれる)。
というか、答えになってない。何でオレの周りには簡単な質問にすら答えてくれない人が多いんだ。
「だって、雨が止まないんだ」
オレも嫌になって指摘しないで話に乗ってやった。
「そうですね、啓くんは昔から雨が嫌いです」
嫌いだから雨の気配がすぐに判る。
「探してたら、ここに人の気配がしたからちょっと覗いて、そしたら啓くんがいました」
話がダイナミックに飛んで訳が判らないよ!! 頭を抱えたくなったが、そんなそぶりは見せずに冷静に指摘してやる。オレ、蝶クール!!
「お前、何言ってるんだよ」
「えーと、啓くんは麻美さんとなんかありましたか?」
また質問に答えやしねえ。しかし……なんてことを聞きやがる。
「…………」
あるといえばあるけど、些細なことだ。
「強いて言えば些細なことが」
『……逃げ回っていると、そのうち身動きが取れなくなるわよ』
嘘は吐いても無駄なので、曖昧に言うしかあるまい。
理香はまた首を傾げた。
「何と比べて?」
その言葉に風花と夏子の顔が浮かんで、ぎょっとした。
理香はそれを見て何度か瞬きをした。少し驚いたらしい。
「私は、今日、セイレーンを探していました」
理香は何故か今になってオレの質問に答えやがった。意味が、意図が判らない。くそう、オレはそんな頭が良くないんだ。使わせるなよ。
「きっと兄貴は壊したがるから、だから」
見つけて、保護するんだろう。
理香はいつだって真っ当で、狂っていると言っても良い博を暴走を少しでも減らしている。中学でオレ関連の博の暴走を止められなかったことは結構気にしていたりするのだ、理香は。同じ学校に、建物にいれば何とかなると思っていたようだ。それはオレでもそう思う。いつでも駆けつけれるからな。けど、その日、理香は風邪で学校を休んだんだ。だから博は暴走したんだろう。オレを暴走させて、せせら笑ったんだろう。
妹の善意を笑顔で踏みにじる兄。
「手伝う、なんて言わないでくださいね」
まさに言おうとしていた言葉を言われた。
人でなしの兄はオレの友達だ。だから、オレも止めたい。そう思うのは……。
「何故?」
理香は真剣な目でオレを見た。あまりに真っ直ぐな視線に思わずそらしたくなる。
「麻美さんに言われました。
啓くん、一つのことに集中してください」
「どういうことだ?」
「啓くんは、今、考えなくちゃいけないというか、私には関係ない問題を抱えていますよね? 誤魔化したって駄目です。バレバレです。こんなとこで一人たそがれているのが何よりの証拠です」
ぐうの音もでやしねえ。
「啓くんが兄貴にこだわる理由、私知ってます。だから兄貴を止めたいんですよね。あんな鬼畜な兄でも啓くんは友達だって言ってくれるんですよね。嬉しいです。ありがとう」
理香は微笑んだ。オレはその笑顔から顔を背けた。気まずかったからだ。
「知ってますよ、啓くんは兄貴と同類だって思ってるんですよね。似たもの同士だから、離れなくないんですよね。違いますよ、啓くんと兄貴は違う。致命的なところが違う。
違います。啓くんは兄貴とは違います。だって啓くんはやさしくあろうとしてるじゃないですか。だから全然違います。
それにね、啓くんが兄貴のそばにいたくても、兄貴はすぐに離れていきます。兄貴、もう啓くんに興味ないですから。酷いですよね。啓くんは友達だって言ってくれてるのに。
それでも、そんな酷いことを平気でする兄貴を、啓くんは友達だって言ってくれている。だから、啓くんは見ないほうがいい」
そうだと知っていても、実際目にしたら、どんな強固な誓いでもあっさりと崩れ去る場合だってある。それを理香は心配してくれる。
「だったら、全力で力ずくにでも離したほうがいいんですけど……けど、妹のエゴなんです。あんな兄にも一人くらい、友達がいてほしいんです」
少しばかり寂しそうな目だった。
「えっと、だから」
クサイことを言っていることに気づいたのか、恥ずかしそうに頬を赤らめ、理香は誤魔化すように微笑んだ。
「今は離れていてください。セイレーンは頑張って私が守りますから」
「一人でか?」
ようやく出たオレの言葉に理香は自信満々にない胸を張った。殴られた。
「対兄貴最終兵器、飯田麻美さんに助力を申し出ました」
「ぴゅう!」
うまく口笛を吹けないオレはそれっぽい言葉を出した。なんじゃいそら、という理香の表情が辛いです、ええ。
「それはとても安心ですね、という意味でしてね」
「そうですか」
トーンの下がった声に若干傷ついた。
「麻美さんは親切で、とてもやさしいです」
嬉しそうに理香は言った。何というか、信頼できるお姉さんゲットだぜ!! って感じです。違うかな。ともかく理香は麻美のことが大好きですよオーラが出てます。モテモテだぞ、麻美。
「私のことも啓くんのことも、風花さんも元樹さんのことも、夏子さんも兄貴のことも気にかけて、色々言ってくれます」
麻美、大変過ぎだろ……。オレが言うのもなんですが……。
「だからね、啓くん、こっちは大丈夫です」
満面の笑顔。最強にして最高の助っ人を手に入れた理香は無敵だ。オレの助けなんていらない。むしろ――最初からいらなかったんだろう。
だから、オレは否応なくオレの問題に取り掛かれる。
風花の問について考えなくちゃいけない。置いていってしまった夏子のことを考えなくちゃいけない。
考えたくなくて、今日は二人から逃げた。どんな顔をして会っていいか判らなかった。
いや、今だって判らないんだ。
――苦痛だ。
「逃げちゃ駄目ですよ」
オレの考えを見越すように理香は言う。束縛と苦痛を与えるはずの言葉は、その柔らかい表情によって裏切られる。
「まあ私は嫌なことから逃げてもいいと思いますけど、やっぱり、逃げるよりも、逃げたくなるくらい嫌な問題に立ち向かうほうが素敵じゃないですか。
えっとですね、なんていうのかな。嫌な問題から逃げるのは普通ですよね。けど、寸前のとこで思いとどまってやっぱり立ち向かうぜ! って……えーとそういう問題じゃなくて。えーとえーと」
何を伝えたいのか判らない。理香は言葉に出来なくて頭を抱えてうんうん唸っている。
言葉が見つからなくて、眉間にしわを寄せている。何を言いたいんだろう?
「やらなくちゃいけないことは、やらなくちゃいけないです。やりたくないことなら、やらなくてもいいです。けどやっておいたほうがいいなら、やったほうがいいです。けどそれが嫌なことだったら……逃げ出したくなりますよね。
けど、そこで逃げるか否かが……えーと、なんだろう。とりあえず、線引きになりますよね?」
同意を求められても困る。それに何の線引きだ。
「うーんと……えーと。
逃げるくらい嫌な問題に立ち向かっている人は素敵なんです!」
理香は言葉が見つかったと言わんばかりに断言した。
「あのね、啓くん、私ね、この前漫画で見たんです。ズタボロになって、ぐちゃぐちゃに泣いてて、それでも前に進もうとしている主人公を。
その姿はぼろぼろでお世辞にもカッコ良いなんて言えなくて。けどね、その主人公は、這ってでも前に進もうとしてるんです。より良い未来を掴むために、必死になって頑張っているんです。
それは誰かから見れば無様な姿です。でも少しずつ確実に前に進んでるんです。
啓くん、私ね、その主人公が誰よりもカッコ良いと思いました。
綺麗な衣装を身に纏い、どんな問題でもすぱっと解決しちゃう超人よりも、誰よりも強くてやさしくて、みんなから頼りにされている人よりも。
その主人公がカッコ良いと思いました」
訳の判らない、無茶苦茶なことを理香は言っている。
「カッコ良いんです。問題に立ち向かっている人はカッコ良いんです」
けど、なんとなくだけど判る。
これは、間違いなく。
――励ました。
これは何よりも暖かい励まし。
理香なりの、真っ直ぐな、想い。
ちょっと押し付けがましいけど。
理香は理香なりに応援してくれているのだ。
「ふむ、その論理で行くと理香は今から博と戦うという問題に立ち向かうわけだ。よってどや、オレってカッコ良いやろ? ということだな? つまり自慢か」
嬉しくて、けどそれを素直に出すのはなんとなく癪だったので、いつも通りからかった。
「むう! なんですかそれは!! 必死になって一生懸命考えたのに!!」
「実際、私は頑張ってますよを言葉を重ねてゴージャスにしただけじゃないか!」
「もう、啓くん人の厚意をなんだと思っているんですか!?」
「こ、好意だと!? すまん、オレは年下にはキョーミが――」
「馬鹿!!」
いつもだったら容赦なく来る攻撃が、今は軽めのパンチにとどまった。理香もオレの照れ隠しを見抜いているのだ。
理香は微笑んだ。オレも微笑んだ。
軽く握られた拳をオレの胸から離す。
「啓くん」
その拳をオレに突き出した。
「がんばれ!」
なんだかくすぐったい気持ちになった。
オレは理香の言葉と心意気に答えたくて、軽く拳を作る。
「お前もな」
そう言って、理香の拳にコツンと当てた。
嬉しそうに微笑む理香が何よりも大切な、暖かい存在だと思った。麻美と一緒で、身近いる友達のために一生懸命になって最善手を選ぶような、泣きたくなるくらいのお人好し。自分の損得何ざこれっぽっちも考えちゃいない。
オレは拳を解き、その手で理香の頭をぐしゃぐしゃと撫でてやった。
「もおう、何するんですか!」
口を尖らせて理香はオレの手をほどき、髪を直す。
「お前はきっと、世界で一番――」
――優しくて
「優秀な妹だよ」