翔くんとやよ先輩 
〜その二〜




 陸上部を辞めることが出来ないまま、文化祭の時期になりました。
 中学校の文化祭は小学校とは違い、そこそこ生徒の自主性にゆだねられています。でも、基本は同じです。本番よりも、準備期間のほうが楽しい、です。
 ぼくはクラス展示の手伝いをする合間に生徒会室に行って、やよ先輩のお手伝いをしていました。こっちのほうが楽しかったです。こうやって何回も生徒会室に顔を出していると、役員の人たちに顔を覚えられ、やよ先輩がいなくとも仕事をくれるようになりました。たまにぼくはここに何をしに着たんだろうと思いますが、楽しいので問題ありません。

 文化祭当日は友達と校内を回りました。真面目なテーマを取り扱ったクラス展示は案の定人気がありません。ぼくのクラスもそれだったので、受付の女子が暇そうにぼーっとしていました。暇なら放っておいて出かけてもよさそうですが、展示物を壊されたら困るので、一応いなくちゃいけないみたいです。ぼくの担当時間も人が五人くらいしか来なくて暇でした。
 人気があるのはアイドル特集を組んだクラスでした。他校の生徒が喜んでいるのを見かけました。しかしぼくたちは興味がないので部活発表のほうへと行きました。

 クラス展示のほかにクラス発表があります。簡単に言えばステージ発表です。ぼくのクラスは無難に劇をやりました。一年生はみんなそういうので、二年生はちょっとおちゃらけた劇が多かったです。三年生となると、最後なんだからということなのか、ダンスをしたりバンドを組んで歌を歌っていました。ダンスはともかく歌は酷かったです。
 クラス発表のほかに生徒会発表と言うものもあります。文字通り、生徒会役員が何かをします。何をやるのか何回かやよ先輩に聞きましたが、教えてくれませんでした。当日のお楽しみということでしょう。
 その、生徒会発表。
 これは伝説になりました。
 はっきり言って酷いです。
 内容は単純です。やよ先輩が一人で歌を歌いました。たぶん、流行歌です。
 すごかったです。
 ものすごい音痴なんです。メロディが完璧に破壊され、誰もが知っている歌なのに誰もが知らない歌と化していました。
 耳をふさぐ生徒が多数、やめろと懇願する元気のある生徒が少数(でもやよ先輩は最後まで歌いきった)。貧血気味だった二人の生徒が保健室に運ばれました。
 何故他の生徒会役員は止めなかったのでしょうか。後日それをたずねると副会長が辛そうに顔を歪め教えてくれました。
「止まらなかったんだ」
 練習中のやよ先輩を見て、役員全員で止めたそうです。それでも止まらなかったようです。曲そのものを止めようと思ったそうですが、それならそれで構わず歌いきるだろう、ならせめて伴奏くらいあったほうがという苦渋の決断をして当日は決行したそうです。迷惑です。
 このやよ先輩の暴走に、平気だった人が二人いました。幼馴染の二人です。二人とも耳栓をして時が過ぎるのを待っていたそうです。
 生徒会役員の何人かも同じく耳栓をしようとしたのですが、それは何も知らない生徒たちへ申し訳なくて出来なかったそうです。責任ある言葉に感動したというより、同情しました。
 当のやよ先輩は実に清々しい笑顔でした。
「いやあ、大声出すのってすっきりしていいね!! あー楽しかった」
 楽しかったのはやよ先輩だけです。そう言いたかったけど、その笑顔を見たらそんなことを言う気が失せました。
 なんだかんだ言って、初めての文化祭は楽しかったです。



 ぼくが陸上部に行かなくなってから結構経ちました。でもぼくはまだ陸上部に所属しています。退部届けが受理されていないからです。
 担任の先生は陸上部の顧問の先生と何回か話をしてくれたそうですが、顧問の先生は納得してくれませんでした。だからぼくと担任の先生と陸上部の顧問の先生と話すことになりました。
 時間は放課後。部活の時間です。顧問の先生は部に行きたいでしょうに。少し申し訳ないです。
 三人でじっくり話し合いました。担任の先生は「本人がやる気がないのだから辞めさせてあげたらどうですか?」という意見なのでぼくの味方でした。顧問の先生はそれを固辞します。そこまで頑なになるのが不思議で聞いてみました。
 顧問の先生は、ぼくの走りに才能を感じたと言いました。今はまだ良い結果を残せていないが、将来はきっと良い選手になれる素質を持っていると。だから辞めずに続けてほしいと。
 それを聞いたらさすがに困りました。というか、先に嬉しいと思いました。才能があるって言われたらやっぱり嬉しいです。少しやる気も出てきます。
 でも、とぼくは急いで冷静になります。
 顧問の先生の言葉は嬉しいです。しかしそれはあくまで顧問の先生の目から見たものであって、別にプロの選手やトレーナーから言われたわけではありません。……それでも嬉しいですけど。顧問の先生は体育の先生で、他の先生よりはそういう目が肥えているとは思います。それでもやっぱり素人です。
 少し気持ちが揺れましたが、はっきりとぼくは言いました。
「先生の言葉は嬉しいですが、やっぱりぼくは辞めたいです」
 ぼくの結論は変わりません。この前、河川敷を倒れるまで走って判りました。ぼくはただ走っているのが好きだと。タイムを計ったり誰かと競ったりするのが苦痛だと。
 それを正直に顧問の先生に話しました。ぼくの固い意思を感じ取ってくれた担任の先生も口添えしてくれました。すると顧問の先生はしゅんと肩を落として「だめか……」とつぶやきました。悪いことをしている気分になりました。でも、それでもぼくは自分の意思を貫き通しました。
 数十秒の沈黙の後、顧問の先生は諦めたようにため息をつき、肩の力を抜きました。小さく笑ってぼくに「しつこく言ってすまなかった」と頭を下げてくれました。判ってもらえたようです。でも「せめて二学期が終わるまで名前だけは置いておいてくれ」と頼まれました。理由を聞くと、もうすぐ二学期も終わるし、何より細かい事務手続きが苦手だからだということでした。そういうことは長い休みのときにまとめてやってしまいたいとのこと。簡単なことかと思っていましたが、先生からすると案外そうでもないようです。……面倒なだけじゃないでしょうか?  少し疑問に思いましたが、ぼくはうなずき、それで話は終わりました。
 担任の先生にお礼を言い、顧問の先生にはお世話になりましたと頭を下げました。
 それからぼくは生徒会室に向かいました。やよ先輩に報告するためです。仕事中だったらやっぱり諦めて帰ります。
 やよ先輩に会う。そう思っただけでなんだか嬉しくなりました。
「わ、翔くん、嬉しそうだね」
 気持ちが顔に出ていたみたいです。それをいきなり指摘されました。急な声にびっくりしてぼくは声の主をまじまじと見詰めました。
 やよ先輩でした。なにやら物がたくさん入ったダンボールを抱えています。
「やよ先輩! すごいです、会いに行こうと思ってたんですよ」
「ええ、そうなの? いやあ、嬉しいなあ」
 ぼくの言葉にやよ先輩はにこにこと微笑むと身体を揺さぶりました。ダンボールの中のものがガチャガチャと音を立ててちょっと怖いです。音からしてこれはガラスでしょうか。
「ん? これ?」
 ぼくの視線に気づいたやよ先輩はダンボールの中身を見せてくれました。そこには少し欠けたビーカーや試験管、それと名前の判らない理科室にありそうな実験道具がありました。
「理科の先生にばったり会って、暇ならこれを捨ててきてくれって頼まれたのだ」
「やよ先輩は雑用ですか?」
「あはは、そうかもね。でも暇だからいいんだよ」
 やよ先輩は先生の使いっ走りにされてもまったく気分を害しないようです。よっぽど暇だったのか、それともお人好しか。きっとやよ先輩なら後者だと思います。
「でも重そうですね、ぼくが持ちますよ」
「へ? いいよ、頼まれたの私だよ?」
「でも重いでしょう?」
「うん」
「じゃあぼくが持ちます」
「重いけど、持てるから大丈夫だよ」
「じゃあ半分持ちますよ」
 妥協案を出してみました。やよ先輩は少し考えた後、ダンボールを床に置きました。
「じゃあ、翔くんはそっちを持って」
 採用されました。嬉しいです。
 やよ先輩の指示に従い、二人でダンボールを持ちました。二人で持っているからそんなではないですが、結構重いです。女子一人に持たす量じゃないです。
「じゃあ足元に気をつけてね」
「はい」
 ぼくたちは気をつけながらゴミ捨て場へと運びました。
 適当に分別するともと来た道を戻ります。その途中で言いました。
「ぼく、退部できそうです」
「へえ、良かったね!」
 やよ先輩は言葉少なく、でもぴょんぴょんと飛び跳ねて自分のことのように喜んでくれました。
「でも事務手続きが面倒なので二学期が終わるまでは陸上部です」
「そっか、もうちょっとだもんね」
 文化祭が終わり、あとは二学期最後の試験を終えれば冬休みです。
「冬休みは何をするんですか?」
「だらだら遊んで最後の三日で宿題を泣きながらやっていると思う」
「判っているならコツコツやればいいと思います」
「放っておいてほしいんだよう」
 人には向き不向きがありますが、やよ先輩はコツコツという作業が苦手みたいです。
「翔くんは? やっぱり走るの?」
「そうですね……早朝ジョギングに挑戦したいです」
「何で朝?」
「やったことないからです」
「好奇心が旺盛なんだね」
 そうかな? と首を傾げました。やよ先輩の言うことはちょっと不思議です。
 その後もだらだらと会話を続け、十七時になったので帰りました。
 やっぱりやよ先輩とお話するのは楽しいです。



 早朝ジョギングのことを親に話すと「それなら新聞配達でもしたら? 今、バイトを探してるらしいよ」と言われました。これなら早く起きれるし、ジョギングも出来る。しかもお金になる。いい案です。
 ぼくは納得して翌日学校側に許可を求めました。中学生が出来る唯一のバイトと言ってもいいのがこの新聞配達です。ですが、学校の生活で精一杯なのか、やっている人は見たことがありません。友達と一度バイトの話をしたことがありますが、決まって「高校生になったらやるかな」でした。高校生だと出来る種類も増えますからね。
 話を戻します。許可は簡単に貰えました。家庭の事情がないとだめかなと思っていたので拍子抜けです。でもこれで第一関門突破です。第二関門はもちろん、面接です。母の知り合いが配達員をやっているそうなのでそこから話をつけてもらいます。コネがあるならば使うべきです。これは就職活動をしている従兄弟の言葉です。肖ります。
 バイトをするかもとよく遊ぶ友達(クラスメイトでもあります)に伝えると理由を聞かれました。隠すことでもないので正直に「朝からジョギング出来て、お金ももらえるから」と言ったら「お前らしいな」と笑われました。「バイト代楽しみにしている」とも言われましたが、冗談なので気にしていません。続けて「生徒会長に言わなくていいのか?」と聞かれたので「もちろん言うよ」と答えると友達はにやにやと気味の悪い笑顔を浮かべました。不思議というより不気味です。
「仲がよろしいですなあ〜」とどこかカチンとくる口調で言われました。少し腹が立ちましたが、ぼくとやよ先輩は他の先輩に比べたら仲が良いことは事実なので反論しませんでした。その事実が嬉しくて自然と頬が緩みました。「鳴海くん、嬉しそうだね」とぼくと友達の会話を聞いていた女子が少し呆れた笑顔で言いました。ぼくはその指摘に笑顔でうなずきました。
 ぼくとやよ先輩が仲良し。それだけでぼくは嬉しいんです。


 ゆっくり話したかったので昼休みではなく放課後に生徒会室に向かいました。もちろんやよ先輩に報告するためです。
 掃除当番もなく、まっすぐに来たので会議があってもその前に会うことが出来ます。会議だった場合はそこいらを散歩しながら時間を潰すつもりです。
「しょーーーーーーーーーーくーーーーーーーーーーーーーーーん!!!!!!」
 やよ先輩しか呼ばないぼくのあだ名が聞こえたと思ったら、背中にどん! と衝撃がきました。次に重みがきて、そのまま前に倒れそうになりましたが、踏ん張って耐えます。
「やよ先輩」
「やあやあ翔くんやっほー!」
 振り返ればやよ先輩がぼくの背中に張り付いてました。嬉しそうににこにこ微笑んでます。
「嬉しそうですね、何かいいことあったんですか?」
 大声を上げてぼくに抱きついたやよ先輩は当然ながら注目を浴びていました。すぐそばにいるぼくも見られています。でもぼくはこんなに近くにいるやよ先輩が新鮮で、何より嬉しくて、他の事なんてどうでも良いと思いました。
「うん、翔くんに会いたいなって思ったら翔くんがいたの」
「――!」
 至近距離からのやよ先輩の言葉よりも、その口からこぼれる息が耳をくすぐります。
「くすぐったいです」
「んー? 翔くん耳が弱いんだね」
 言うや否や、やよ先輩はぼくの耳に暖かい息を吹きかけます。
「わあああ」
 くすぐったくて仕方ありません。背筋がぞくぞくして身震いします。しかし暴れたらやよ先輩が離れてしまうのでぐっと我慢です。
「はははっはっはっ。翔くん面白い!」
 ぼくはそれどころじゃありません。
 周囲から好奇やなんやらの視線を感じますが、やよ先輩はまったく気にしていません。ぼくはやよ先輩からの攻撃(?)から耐えるのに精一杯でそれどころじゃありません。
 そんなことを五分くらいしていると、生徒会役員の人がやってきて止めてくれました。「公衆の面前でなにイチャついてやがる」と吐き捨てられました。びっくりです。少なくともぼくにはそんなつもりはこれっぽっちもなかったからです。
 同じように驚いたやよ先輩を見て、同じ考えなんだと安心しました。

「やよ先輩はぼくを探していたんですか?」
「へ? ああ!! そうそうそうそうそう! そーなの」
 やよ先輩は懐から二枚の紙切れを出しました。
「映画の割引券を貰ったのだ。翔くん一緒に行かない?」
「へー。何の映画ですか?」
 少し驚きつつ重要なことを聞きます。
「んとね」
 聞いたことのないタイトルでした。やよ先輩いわく「最近の話題作」らしいです。よく考えたらぼくはテレビをそんなに見ないので知らないのは当然かもしれません。
「どう?」
「はい、観ます」
「じゃあ、土曜日に行こうか」
「はい」
 ぼくたちは軽く約束すると、連絡のために携帯電話のアドレス交換をしました。
 やよ先輩のアドレスゲットです。
 ……あ、バイトを始めることを報告し忘れました。



 約束の土曜日。約束の時間は十時で場所は駅前。映画の時間は十時半。駅前は人通りが多いので、色々な店が集まります。映画館だってその一つです。
 ぼくは約束の場所――駅前にある変なオブジェ前――に時間ぴったりにつくように家を出ました。ぼくは五分前行動ということはしません。理由は特にありません。
 携帯電話で時間を確認すると九時五十八分。二分早く来てしまったようです。
「翔くーん!!」
 大きな声で名前を呼ばれました。声の主は視線を動かせばすぐに見つかりました。当然ながらやよ先輩です。大声にやよ先輩の近くにいた人がぎょっとしていました。
 今は冬なのに黒いミニスカートをはいています。膝上十センチ以上です。寒そうです。ハイソックスの色も黒。上の服はコートを羽織っているので判りません。コートの色は白です。長い髪は下ろしていて、冬用の布の厚い帽子をかぶっています。そういえば前に外で会ったときもやよ先輩は帽子をかぶっていました。あの時は夏らしく麦藁帽子でした。それと小さなカバンを背負っています。色は薄い茶色です。
「おはようございます」
「おはよう翔くん」
 とことことぼくの元に走ってくるやよ先輩。
「待ったかな」
「いいえ、今来たところです」
 二分は待ったうちに入らないのでこの返答は間違ってはいません。
「そっかそっか。ほいじゃ、見に行こう」
「はい」
 ぼくたちは並んで近くにある映画館へと歩きました。

 映画が始まる前に飲み物とポップコーンを買いました。やよ先輩いわく「ポップコーンを食べないと映画を見た気になれない」とのことです。それに対し、ぼくは「パンフを買わないと映画を見た気にはなれません」と返しました。やよ先輩は納得してくれました。
 二人でポップコーンを食べながら上映までの時間を潰します。そこでぼくは先日言い忘れたバイトを始めたことを報告しました。
 始める、じゃなくて、始めた。
 ぼくはあっさりとバイト少年になれました。面接は形だけで、すぐに仕事を教えてもらいました。もっとも教えてもらったことは配る家についてです。
「へええ、朝に走れてお金も貰えて一石二鳥だね」
「はい」
「最初のバイト代は、お母さんになんか買ってあげるんだよ」
 その言葉にぼくはきょとんとしました。
「どうしてですか?」
「だってお母さんが紹介してくれたんでしょ? それに翔くんが頑張ったお金で買ったものだよー? お母さんめちゃくちゃ嬉しいよ」
「そういうもんですか?」
「そういうもんらしいよ。友達のイトコがね、それやってお母さんを泣かしたのだ」
「なるほど」
 特に考えていなかったバイト代の使い道が見つかりました。最初の一回限りですが。なにがいいでしょうか。でもまだ給料日までたっぷりあるのでゆっくりのんびり考えることにしました。
「ところでやよ先輩、帽子はとったほうが見やすいですよ」
「へ?」
 ぼくの指摘にきょとんとして、ああと言ってから野球帽をはずしました。かぶっていたことをすっかり忘れていたようです。

 映画は約二時間。終了すればちょうどお昼時です。ぼくたちは込み合うファーストフード店に入りました。ぼくが席を確保し、やよ先輩が注文してきます。もっと空いている店が良かったのですが、時間とお金の関係で中高生があふれるこの店となりました。
 やよ先輩が買ってきたのはセットメニューです。ちゃんと二つとも違う種類でした。
 映画の感想を言い合いながらお昼ご飯です。
「ところで、どうしてぼくを誘ったんですか?」
 今気づいたことをたずねました。後輩というより顔見知りのぼくよりももっと近しい人を誘うのが普通です。クラスメイトの友達や、幼馴染さんが二人もいます。
「馬鹿じゃないのって言われたんだよねー」
 一人目の幼馴染さんに冷たくそういわれたそうです。返事としておかしいと思います。
「ああ、えっとね、『あとでもっと安く見れるようになるのになんで高い金出して見なくちゃいけないのよ。馬鹿じゃないの?』という意味なんだー」
 言葉をはしょりすぎです。でもちょっと理解出来るので言い返せません。
「あとはね、『暗いところは危険だ』って」
 これはもう一人の、背の高い男の人の幼馴染さんの断り文句だそうです。
「暗所恐怖症じゃないんですか?」
「認めてくれないんだよー」
 自分の弱さを認めたくないのでしょうか。
「それでね、他に誰がいいかなって考えたら翔くんの顔が浮かんできたの」
「へー」
 やよ先輩にとってぼくは幼馴染さん二人に次ぐ位置、なのでしょうか。だったらとっても嬉しいです。
「翔くんがうなずいてくれて良かったよ」
 はにかむやよ先輩は無邪気です。
「そんなに見たい映画だったんですか?」
「ううん。うーんとね? なんてかね、翔くんとお話するの私、楽しいんだ」
「――」
 予想していなかった言葉にぼくは目を丸くしました。
「いや、楽しい……楽しいもあるけど、何て言うのかなー、落ち着くってか、癒されるっていうか……よく判んないけど、一緒にいて心地いいの。ああ、これだ、翔くんのそばは居心地がいいの」
「…………」
 言葉の意味を時間をかけてかみ締めました。
 嬉しい。
 嬉しい。
 やよ先輩の言葉が、胸にじーんと沁みこんでいきます。
「嬉しいです」
 だからぼくは素直にそう言いました。でもなんだか少し恥ずかしくなって、頭を掻きながらやよ先輩の視線から逃げます。
「ぼくもやよ先輩とお話するの、楽しくて好きです。先輩のそばにいると幸せです」
 それでもぼくは正直に言いました。ぼくの嘘偽りのない言葉にやよ先輩は嬉しそうに笑ってくれました。
 そうしたら、隣の席の高校生らしき男子が飲んでいたジュースを噴出しました。ぼくとやよ先輩は顔を見合わせ、何事かと首を傾げました。



 映画を一緒に見たその日、たくさんお話をしました。学校のこと、趣味のこと、家族のこと、色々なこと。
 やよ先輩は十歳も離れた妹さんがいて、とても可愛がっているのですが、最近は犬にかかりきりで「お姉ちゃんに構ってくれない」としゅんとしていました。たくさん妹さんの可愛さについて語ってくれました。口を挟むことなんて出来ません。相槌を打つことしか出来ませんでした。これが噂に聞くシスコンかと思いました。

 冬休みに入る前にまた少しでいいからお話をしたかったのですが、なかなか時間が作れず、叶いませんでした。廊下ですれ違って一言二言くらいなら何回かあったのですが、満足できません。ぼくはもっと長く話したいのです。
 バイトに行くために朝起きるのがちょっと辛いこととか、バイトの朝、必ずお母さんが作ってくれたおにぎりがあってすごく嬉しいとか、そういうことを話したいです。
 でもぼくの願いは叶わず、冬休みに入ってしまいました。

 雨の日の午後、ぼくは自室のベッドの上で読書をしていました。雨が屋根を叩く音が心地よいです。そんな空気を引き裂くようにぴぴぴ! と携帯電話が鳴りました。設定が面倒だったので、音は初期設定のままです。
 音が短いのはメールです。誰からかな? とメールを開くとクラスメイトの友達でした。内容は、年が明ける前に一回遊ぼう、でした。
「あ」
 今気づきました。やよ先輩の携帯電話のアドレスを知っているなら、それで連絡を取れば良かったと。何で今まで気づかなかったんだろう。
 友達に都合のいい日を書いたメールを送った後、やよ先輩に送るべく、メールを作成し始めました。
「……えーと」
 でも、何て書いたらいいのかさっぱり判りません。
「お久しぶりです。鳴海翔太です……あ、メールが来た時点でぼくって判るか……えっとじゃあ……」
 ぶつぶつと独り言を言いながら文章を考えます。

 お久しぶりです。
 元気ですか? ぼくはバイトも慣れてきました。
 最近は寒いですね。さすが冬ですね。
 ところで、都合がよければ遊びませんか?

「…………」
 なんだか変な文章な気がする……。
「うーん」
 しばらく携帯電話とにらめっこしながら文章を考えましたが、なかなかうまくいきませんでした。悩んでいると母親の大声が響き、夕食の時間と気づきました。
 ぼくは携帯電話を置いて居間に向かいました。


 翌日、ぼくは友達の家に遊びに行きました。昨日メールをくれた友達の家です。
 やよ先輩に送るメールについて相談しました。両親に相談しようかと思ったのですが、それはちょっと親に話すことじゃないと思い直しました。
 相談した友達は最初、ぽかーんとして、次に顔を引きつらせました。しばし沈黙した後、「とりあえず狩ろうぜ!」と元気よく言ったので、ぼくはうなずき、携帯ゲーム機を取り出し、起動しました。
 共に狩りをすること数時間。日が暮れて晩御飯の時間に迫ってきました。ぼくは時計を見て「もう帰らなくちゃ」と友達に告げました。友達もそうだなとうなずき、玄関まで見送ってくれます。今日の成果を二人で熱く語ります。満足出来る狩りでした。
「会長に送るメールだけどさ」
「うん」
 急に話が飛んで驚きました。ぼくはすっかり忘れていたのに、彼は覚えていてくれたようです。感謝です。
「俺や他の友達と同じようなメールでいいんじゃないの?」
「そうかな」
「そうだよ、先輩ったって友達だろ? 要するに年上の友達だろ?」
「でも女の子だよ」
「お前、女子にだって同じようなメール送ってるだろ……」
 女子だからって別にぼくはメールの文面を変えたりはしません。友達の指摘はもっともでした。
「そうだね」
「だろ?」
 納得できますが、何でだろう、どこか納得できません。首を傾げていると友達がにやにやしていました。そんな顔をされることをぼくは言ったのでしょうか? それともそんな表情をしていたとか? 今度は逆方向に首を傾げました。
 問い詰めようと思いましたが、時間もないし、なんとなくですが、話してくれそうもないと思ったので帰ることにしました。



 年が明け、いつも通りのお正月が過ぎ、何事もなく新学期となりました。
 結局ぼくはやよ先輩にメールを送れず、ぐだぐだと冬休みを過ごすことになりました。一番無意味な冬休みだと思いました。
 ですが、新学期です。学校に行けるということはやよ先輩に会える確率がぐんと上がります。ぼくは気合を入れて登校しました。


 からっと晴れた寒空の下で、ぼくはマフラーに顔を埋め、歩いています。マフラーからこぼれる息が真っ白です。
 てくてく歩いていくと、途中で友達に会いました。クラスメイトで狩り仲間です。軽い挨拶をし、狩りについての話し合いをします。
 学校の敷地内に入ってからはやよ先輩の姿を探しました。うーん、いません。今まで見たこともなかったのだから、そもそも登校時間が違うのでしょう。
 ふと視線を感じました。隣りにいる友達です。にやにやしています。最近こんな顔ばっかり見ています。どういうことでしょうか? でも聞いても答えてくれなさそうなので、聞きませんでした。

 始業式が終わり、HRの後は授業もなく、そのまま終わりです。午前で学校が終わるのはいつもだったら嬉しいですが、それはやよ先輩が校内にいる時間も少ないと言うことなのでちょっと嬉しくないです。
 どこにいるか判らないので、とりあえず生徒会室に向かいました。そうそう、ぼくは晴れて陸上部を辞めることが出来ました。朝のHRが終わったあとに担任の先生から退部届けが受理されたことを教えてもらいました。晴れてぼくは自由の身です。
 放課後特有の喧騒の中、ぼくはカバンを背負っててくてくと歩きました。すると――

 ぴぴぴ、ぴぴぴ、ぴぴぴ

 と初期設定のままの携帯電話が鳴りました。すぐに止んだのでメールです。あ、マナーモードにしておくのを忘れていました。基本、学校に携帯電話は持ち込み禁止です(誰も守っていませんが)。だからマナーモードにしておくのが基本なのですが、すっかり忘れていました。
 カバンから携帯電話を取り出し、メールを開きました。

 件名:やっほ☆
 本文
 あなたの(笑)やよ先輩です♪
 まだ学校にいるかな?
 いるなら生徒会室に来てー。
 ちょっくら頼みごとがあるですたん。

「――――」
 びっくりしました。やよ先輩からです。しかも目的地にいるなんて。やよ先輩の役職を考えれば簡単にたどり着く答えですが。
 ぼくは携帯電話を閉じ、早足で歩き始めました。もうすぐにつくんです。返事は不要です。
 嬉しくて頬が緩むのが判ります。けど、スキップを自重する自制心はまだ残っています。
 ぼくはるんるん気分で生徒会室に向かいました。


 生徒会室の扉を軽くノックして、返事が来る前に開けました。
「お、翔くん早いね。来てくれてありがと、こんにちはあけましておめでとうございます」
 やよ先輩はぼくを笑顔で迎えると全部一緒くたに言いました。少し頭が混乱します。
「えっと、えっと……」
「鳴海、いいから」
 返事に困ったぼくを生徒会副会長が呆れたようにフォローしてくれました。
「まあ、とにかく座ってくれ」
 促され、ぼくはカバンを置き、席に着きました。

 生徒会室には生徒会長のやよ先輩、生徒会副会長のほかに書記と生徒会の顧問でいいのでしょうか、先生がいました。生徒会の偉い人が集まっています。何事でしょうか?
「あのね、翔くん、部活やめたでしょ? だから時間が空いたわけじゃない。新聞配達のバイトは朝だし。でね? 良ければなんだけど、生徒会のお手伝いしない?」
 やよ先輩はぼくを見ながら早口に言いました。副会長が「せめてゆっくりしゃべれ」とつっこみを入れていました。心の中で同意をしつつ、ぼくはゆっくりじっくりやよ先輩の言葉の意味を考えます。
「お手伝いって、具体的に何をするんですか?」
「雑用」
 即答でした。でも判りやすいです。
「別に毎日仕事があるわけでもないし、今でも充分人は足りてるけど、たまに足りないときがあると言うか、翔くん、結構生徒会の仕事知ってるじゃん? 学校祭のときに手伝ってもらったからさ。だったらさ、正式にメンバーになってもらったらどうかなって話なの」
 やよ先輩の言葉に先生が軽くうなずきました。そんなに強い拘束はないし、基本は自由参加。なんちゃって生徒会役員で、別に内申点がつくわけじゃない。と補足してくれました。忙しいときの助っ人要因ってことでしょうか。
 それをそのまま伝えると全員がうなずきました。
 またゆっくりじっくり考えます。時間はやよ先輩が言ったとおり問題ありません。部活を辞めた今はフリーです。バイトも朝です。拘束もない、参加は自由。やることは雑用で、気楽。何よりやよ先輩と一緒にいれる。
 うん、別に問題ない。
「やります」
 ぼくは一人一人の顔を見てから言いました。
「ありがとう」
 やよ先輩が微笑んでそう言いました。他の皆さんも、ぼくを受け入れるように微笑んでくれました。

 この日から、ぼくはなんちゃって生徒会役員になりました。



 なんちゃって生徒会役員になってから変わったことは、暇になったら生徒会室に行くようになったことと、生徒会室に入るときにノックをしなくなったことです。
 放課後、生徒会室に行けば必ず誰かがいる、ということなく、鍵がかかっているときもあります。そういう日は諦めて家に帰ります。開いているときは役員の皆さんのお手伝いが三割で、七割が楽しくおしゃべりです。三学期は学校祭のような大きなイベントがないので基本暇です。生徒会室に集まる役員も暇だから、ということで集まっている節もあるそうです。すぐに帰って遊べばいいのに、と思いますが、人それぞれ事情があるんでしょう。
「やよ先輩も暇つぶしにここにいるんですか?」
「うん」
 生徒会室でだらーっとしていたやよ先輩に尋ねました。部活巡りは寒いので中止だそうです。今、ここ生徒会室にはぼくとやよ先輩、それと書記さんがいます。書記さんは仕事があるそうです。
「家でゲームとかやらないんですか?」
「興味ないもん」
 こっそり暖めていた「やよ先輩を狩りゲームにお誘いして共にハンティング計画」が今潰れました。これなら気楽に休日にお誘い出来ると思ったのに。
「ぴこぴこ黙々とやるの性に合わないんだよー。私は外で遊ぶのが好きなの」
 男子小学生みたいなことを言ってます。
「公園のジャングルジムとかー、ブランコに乗って靴飛ばしとかー」
 やんちゃさんです。
「肉体派なんだよ」
 なんとなく違う気がします。
「妹さんとそうやって遊ぶんですか?」
 確か十歳くらい離れていると聞いています。年齢を合わせて遊ぶのなら、問題ないです。もしやよ先輩が妹さん関係なくそういう遊びをしていると言うのなら……すごく似合ってると思います。ただ、遊具は子供用なので、中学生のやよ先輩には小さいだろうなと思います。
「前まではねえ……」
 だらーっとしていたやよ先輩が、しゅんとしてしまいました。
「どうしかしたんですか?」
 悪いことを聞いちゃったのかな? と思いましたが、気になったのでたずねてしまいました。
「前はね……良くうちの宇宙一可愛い妹とその幼馴染と公園で遊んだりしてたんだけどさ……。
 子犬を貰ってからね……うちの次元を超えて可愛いと言う言葉が自信をなくするくらい可愛い妹が子犬にかかりっきりになってしまってね……。おねえちゃんに構ってくれないの……」
 前もそんなことを言っていました。状況は変わっていないようです。
「寂しいんですね」
「うん。それでね? 張り切ってうちの時空を超越して世界が滅亡するレベルに可愛い妹が子犬の世話をしてね、私も子犬に構いたいからちょっと手伝おうとするんだけど、そしたら『おねえちゃんはだめ!』って怒られるの」
「ああ、独占したいんですね」
「そうそうそう。子犬のほうもさ、全部世話してくれるうちの……えーと」
 視線を天井に向け、言葉を捜しています。
「とにかく可愛い妹が大好きで相思相愛で子犬も私に興味なくて寂しいから、おねえちゃん学校で暇潰して帰ることにしたの。早く帰っても虚しいだけだからね」
 打ち止めのようです。
「寂しいですね」
「うん。寂しいの。けどここは翔くんがいるからそうでもないよ」
 嬉しいことを言ってくれます。
「ぼくはやよ先輩と一緒にいれるだけで幸せですよ」
 隣でごん! と机を叩く音がしました。見てみると、書記さんが机に額を打ち付けていました。痛そうです。
「そうそう、やよ先輩。相談があります」
「なんだい翔くん、おねえさんにどんと言いたまえ」
 お互いに演劇みたいな口調でちょっとおかしいです。
「バイト代でお母さんに何か買おうと思うんですが、何を買ったらいいでしょうか? カーネーションは違いますよね」
「それは母の日だね。でもチョイスとしては悪くないね」
 書記さんが顔を勢いよく上げ「どこかだ!」とつっこみを入れました。
「花を貰って喜ばない女の子はいないって言うけど、あれ嘘だから」
 やよ先輩は腕を組んでしみじみとうなずきます。書記が「お前は一体何を言っているんだ!?」と再度つっこみを入れています。
「うーんと、季節的にマフラーとか手袋でいんじゃないかな?」
「なるほど、使えるものはいいですね」
「そだ、今の季節って手が荒れるからハンドクリームもいいかも」
「うーん、でもそれってお手軽に買えますよね」
「じゃあやっぱりマフラーに手袋かな?」
 意見を出し合っていると、書記が手を上げました。
「どうぞ?」
 ぼくとやよ先輩の声が重なりました。なんか嬉しいです。
「何でお母さんにだけなの?」
 書記さんの疑問は生徒会室に静寂をもたらしました。
「…………」
「…………」
 そうですよね……お父さんにも感謝しなくちゃだめですよね。毎日こうやって何事もなく学校に通えるのは、お父さんが頑張って働いてくれているからです。お母さんにだけってのはおかしいです。
「ですよね」
 ぼくがしみじみとうなずくとやよ先輩も遅れてぼくと同じようにうなずきました。
「お父さんにはネクタイがいいよ。父の日に冗談であげたらめちゃくちゃ喜ばれたもん。あれは一生の不覚だね」
「不覚って」
「だってさ、変な柄のと、まあ普通かな? ってのをあげたんだ。そしたら両方とも喜んじゃってさー。んで、普通のはお母さんいわく、値段にしちゃいいものだったんだよね。それは喜ぶかなと思って、ちょっとギャグも入っていたから、すごく喜ばれると嬉しいは嬉しいんだけど複雑なの」
 複雑なのはやよ先輩だと思います。
「えっと、そうしたらお母さんにはマフラーか手袋で、お父さんにはネクタイと……結構かかるかな」
 バイト代が吹っ飛ぶほどではないでしょうが、結構な出費です。どれもピンキリで抑えればなんとかなりそうですが……でもプレゼントにそれはおかしいと思います。けど、初めてのバイト代、自分のためにも使いたい。
「無難にそこそこ高いケーキでも買っていったら?」
 ぼくの表情を見てやよ先輩は言いました。
「なんだかんだ言って自分のために使いたいじゃん。それならちょっと高いケーキ買って家族で食べたらいいじゃん」
 やよ先輩の言葉に書記さんが「モノより思い出って奴ですか」と肩を竦めていいました。うーん、それもありですね。幸い、お父さんもお母さんも甘いものは嫌いでも苦手でもないです。
「じゃあケーキにします」
「うん!」
「ところで、おいしいケーキ屋さんを知っていますか?」



 土曜の晴れた昼。ぼくはまた駅前の変なオブジェの前に立っています。前にやよ先輩と映画を見に行ったときの待ち合わせ場所です。
 ぼくはここでまたやよ先輩と待ち合わせています。
 おいしいケーキ屋さんのことをたずねたところ、やよ先輩は携帯電話で友達に連絡を取り調べてくれました。それで教えてもらい、せっかくだからというか、ケーキ食べたいから、とやよ先輩も一緒に行くことになりました。
 またやよ先輩と休日を一緒できます。嬉しくて天にも上る気持ちです。
 待ち合わせ時間は十四時。おやつの時間まであと一時間です。お昼に近い時間だと、お腹が減りすぎて舌に迷いが出るそうです。だから適度にふらついて、そこそこ空腹になってからケーキ屋に突撃する予定です。
「翔くん翔くん翔くん!」
 やよ先輩がどたどたと走ってきます。今日のやよ先輩は紺色のミニスカートです。スカートと同色のハイソックスをはいていますが、寒そうです。この前とコートを着ています。帽子も前回同様冬使用の分厚いのを被っています。
 やよ先輩は走り回ったと言いた気に頬を上気させ、肩を上下させていました。
「早く着ちゃったからケーキ屋さんを見てきちゃったよ!」
「下見ですね」
「いやあ! ガン見だね!」
 全力で否定されました。
「じゃあすぐに行きますか?」
「ううん、服を見たかったんだけど、……いい?」
 上目遣い、なんてことはしません。ぼくらは身長が同じくらいです。やよ先輩は申し訳なさそうに、でもどこか必死に訴えてきました。断る理由がないので快くうなずきます。正直、女性向けの服を見るのはつまらないので、嬉しいです。あ、これはもちろんやよ先輩には内緒ですよ?
「それじゃあ行きましょう。えっと、どっちですか?」
「こっちだよー」
 語尾に音符が付いてそうな口調と、満面の笑顔でやよ先輩は左手で道を指し、右手でぼくの手を取りました。寒空の下にいたからでしょう、冷たい手でした。
「翔くんの手は暖かいね」
 ポケットに手を突っ込んでいたのでぼくの手はそこそこ暖かいです。やよ先輩の手を温めたくて、ぼくは少しだけ力を入れて握り返しました。
「このまま歩いていい?」
 無邪気に微笑んでやよ先輩が言います。ちょっとだけ恥ずかしくなったぼくが馬鹿みたいな無邪気さでした。でも特に怒りや何かを覚えるわけもなく、寒いより暖かいほうがいいと思ってうなずきました。


 ケーキ屋への道中はずっと無言でした。いつもは世間話をしながら歩くのですが、今日はそういうふうには出来ませんでした。なぜならやよ先輩が必死の形相でずんずん進むからです。話しかけるのを躊躇う真剣さでした。どれだけ楽しみにしているのでしょうか。
 しかしやよ先輩と手をつないで歩くのは久しぶりです。たぶん、ぼくが部活を辞めたいと顧問に言って聞き入れてくれなかった頃です。懐かしい。
 まあ、それはともかく。
 噂(じゃないですが)のおいしいケーキ屋さんです。寒い外から中に入ります。カウベルが優しい音を立てます。連動して店員さんの「いらっしゃいませ」の言葉に歓迎されます。ざっと店内を見回すと、食事が出来るスペースがありました。といっても二席で、しかも二つとも小さなテーブルにイス二脚と些細なものです。幸い、今は食事をしているお客さんはいません。お持ち帰りのお客さんはいますよ。他にもケーキを前にして悩んでいる人もいます。
 やよ先輩はぼくの手を離し(残念です)、ショーケースを見ています。その目はとてもきらきらしていました。気持ちは判ります。ぼくも隣りに並んで見てみます。
「…………」
 値段は普通でいいのかな? それとも高いのかな? ショートケーキが三百十円です。ちょっと手間のかかってそうなケーキはその手間分値段が上がっている感じです。さて、まずは味を確かめないと。やよ先輩の友達を信じていないわけじゃないですが、万が一もありますし、なにより好みもありますからね。
 何を食べようかな。イチゴのショートケーキにチーズケーキ、モンブラン。チョコレートケーキ。それにシュークリームもプリンもあります。迷います。
「うう……」
 やよ先輩が明らかに「迷ってます」という表情をしてショーケースの中を見ています。
「……うう……うう……」
 苦しそうなうめき声が徐々に悲しみが混じってきました。
「いくつ食べるつもりですか?」
「胃の容量は別腹なので問題なし、経済的には三つが限度で、四つまで絞り込みました」
 一つを切り捨てる決断が出来ないようです。さて、ぼくはいくつ食べるかなんて考えていません。食べ盛りですし、三つ四つはいけると思います。あ、普段はそんなに食べませんよ。出された分しか食べません。
「ショートケーキとチーズケーキとプリンとシュークリーム」
 ベタな選択だと思いました。けど、味を確かめるにはいい選択だと思います。でもそれをするのはぼくの役目だと思うのですが……。ま、いいか。
「ならぼくがチーズケーキを頼みますから、半分こしましょう」
 ぼくの提案にやよ先輩はとても輝いた目をしました。
「い、いいの!?」
「はい、だからそれぞれ一口ください」
「交渉成立だよ!」
 やよ先輩はぼくの手をつかむとぶんぶんと振りました。とてもいい笑顔をしています。良かった。
「えっとじゃあ――」
 ぼくらを温かく見守ってくれていた店員さんに注文しました。


 小さなテーブルに、四つのケーキが並んでいます。全部で八つ頼んだのですが、テーブルに乗り切らないので、あとで運んでもらうことにしました。今あるのは、ショートケーキとプリンとチョコレートケーキとモンブランです。
「――――」
 やよ先輩が祈りをささげるように指を組み、とてもキラキラした瞳でケーキを見つめていました。ケーキが嫌いな女の子なんていません!! って感じです。実際はケーキが嫌いな女の子っていると思います。甘いものが苦手な女の子もいますしね。
「じゃあ、食べようか♪」
 嬉しさ全開の笑顔と声でやよ先輩はフォークを取りました。そしてぼくの返事を待たずにショートケーキにフォークを突き刺し、一口分取って口へ運びます。
「おいしいよう」
 幸せいっぱいの表情で感想を言っています。ぼくはそれを口をぽかんと開けて見ていました。
「やよ先輩、一口ください。約束です」
 ちょっと口を尖らせて言うと、少し驚いた顔をしました。そして「あ」と声を上げ、誤魔化すように笑います。
「ごめんごめん」
 そういうとやよ先輩はショートケーキを一口分取って、ぼくへと差し出しました。
「はい、あーん」
「あーん」
 あーんと言われて、口を開けないという習慣がないので、ぼくは素直に口を開き、ケーキを食べました。
「うん、おいしいです」
「でしょ〜?」
 まるで自分が作ったかのようにやよ先輩は胸を張って言います。ぼくはうなずくに留め、チョコレートケーキに手を出しました。一口食べます。
「ん、これもおいしいです」
「本当?」
 目の前にあるんだから、食べてもらったほうが早いです。ぼくはやよ先輩がそうしてくれたようにチョコレートケーキを一口分とって、やよ先輩へと差し出しました。
「あーん」
「あーん……んーこれもおいしい!」
 また幸せそうににこにこします。喜んで貰えて嬉しいです。

 こんな調子でぼくたちはケーキを平らげました。
 お父さんとお母さんへのケーキもちゃんと買いました。そのとき対応してくれた店員さんの視線が妙でした。なんといいましょうか、暖かい視線とでも言うのでしょうか。何でそんな目で見られるのでしょうか? 良く判りません。



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