※ この作品はArcadiaさんにも掲載しております。
消毒液の匂いが鼻腔の臆にツンと刺激を与える。
俺はこの匂いは嫌いじゃない。だからといって、特別好きという訳でもないが。
だから、この匂いが充満している(病院ほどじゃない)この部屋にいるのはさほど苦痛は感じない。ただ、こんなところで、こんなことは普通しないよな、と思う。
こんなところ。
俺の通う私立鳴星高等学校で消毒液の匂いが充満している部屋――保健室。科学室ってのもありえそうだが。
こんなこと。
数学と英語の宿題。
宿題とは普通家でやるものだ。無理してそれ以外ならば学校の図書室か、学校の図書室よりも広い図書館だろう。
つまり、だ。
「何で俺はここにいるんだ?」
〜宿題と舞衣の事情、それと自己責任〜 |
保健室の、保健の先生が使うデスクを陣取って、俺と笠木の二人で窮屈に使っている。
「別に、帰っていいよ」
俺の疑問を断ち切り、冷たい事を言うのは高野舞衣。こいつは窓側のベッドを陣取り、こちらを向いて腹ばいになっている。昨日、化け物のと戦っていたクラスメイトと同一人物である。頬にかかる肩までの髪を払い、数式が三問書かれた藁半紙を睨みつけている。
数学の宿題は、高野が睨みつけているそれで、英語の宿題は、教科書の英文の写しである。俺と笠木がやっているのは英語で、高野はいわずもがな。
保健室にもかかわらず、何故か保健の先生という至極真っ当な人物はいない。
「昨日の説明をしてくれるまで俺は帰らんぞ!」
強い意志を持って宣言する。高野は藁半紙を見つめ微笑んだ。
「そう、じゃあずぅっとここにいることになるのね」
こんな酷いことを言う奴なのか、高野は。俺の高野の項目に"冷たい"を追加する。……いつも眠そう、って印象しかなかったけどね。
「水はあるから一週間は持つんじゃない? ま、最後は飢え死にね」
冷静に俺の行く末をバッドエンドにしないでほしい。"冷たい"じゃなくて"冷血"にするぞ。
「お前、昨日は説明してくれるって言ったじゃないか」
「それどころじゃないの!!」
高野はようやく藁半紙から顔を上げて、声を荒げた。
高野の数学の宿題は俺たちとはちょいと違う。難易度の問題(それもあるか)ではない、純粋に量だ。俺と笠木(平たく言うと高野以外のクラスメイト)は藁半紙一枚の三問。高野は藁半紙三枚の九問。
一人だけ多いのはちゃんと理由がある。
我がクラスで、一人飛び抜けて数学が出来ない高野のために、数学担当の鈴木先生は少しでも高野の力になるようにと、俺たちよりも難易度が少しばかり低い問題を用意した。まずこれが一枚。次が俺と笠木がさっさと終わらせた、クラスメイト全員に出された宿題。これが二枚目。最後の一枚は、昨日、俺が渡し忘れたものだ。高野は鈴木先生に提出を求められたときに初めて気付いたのだ。で、持ってすらいなかったので、ため息と共に同じ物を渡された。昨日、俺がちゃんと渡していれば高野の宿題は二枚だったかもしれない。
もちろん俺も、悪意があって渡さなかったわけじゃない。昨日ことを思い出して欲しい。あんな非現実で非日常な事が目の前で繰り広げられたら、常識と目的なんてころりと頭から抜け落ちてしまう。言い訳としては充分だ。
そう言い訳すると高野は渋い顔で「仕方ない」とがっくりと肩を落とした。物分りはいいらしい。それとも今更怒ってもしょうがないと思ったのか。
そもそも笠木が自分で手渡せばよかったものだ。強いて言えば、高野が少し待って受け取ればよかったものだ。俺が責められる謂れもないだろう。ぶすっとした表情を見る限りじゃ、それを理解しているのかしていないのかは判らない。
「まいまい、希望が手伝おうか?」
ノートから顔を上げ、笠木が提案した。笠木は同い年と言われたら首を傾げる外見をしているが、数学は出来る。試験のたびに名前を見かけるほどだ(うちの学校は、試験が行われたすべての教科のトップ十を表にして、生徒に配布しているのだ)。本人曰く「数学しか出来ない」らしいが。
「お願いだから、これ以上混乱させないで」
低いトーンでピシャリと高野は断った。自分で解くことに意義があるんだ!! という向上心溢れる理由からではなく、ただ単に笠木の説明じゃ判るものも判らなくなるからである。
俺は一度だけ見たことがあるのだ。笠木が――相手は高野ではないが――他の人間に数学を教えているところを。何というか、肝心なところを省略して、どうでもいい(わけじゃないが)ところを懇切丁寧に説明するのだ。人並みに数学が出来る俺でも混乱するだろう。出来ない高野なら尚更だ。
「そう?」
残念そうに笠木はシャープペンを指でくるくると回した。どんくさそうな見た目から想像出来ない器用さを披露する。
どこにでもありそうな高校生の会話に、頭から昨日のことがするりと抜けかける。おっといかん、と背筋を伸ばす。
「暇ッス」
そんな普通の高校生の会話の中、ジャンガリアンハムスターが、真っ白な腹を見せ、手足をだらしなく弛緩し、仰向けになっていた。声に反応して、笠木が指で白い腹をくすぐる。構ってやっているんだろう。
「いやんいやん、そこはだめッス〜」
気持ち悪く身体をくねらせ、吐き気のする声を上げた。
「高野、質問だ」
「手短に」
「こいつの性別って?」
「ご期待通り、オスよ」
眉間に皺が寄った。ジャンガリアンハムスターは気にせず、身を捩らせる。
「喉はー? 喉はー?」
笠木が言葉どおり、人差し指で優しく喉をさすった。
「そこはっ、そこはいや〜ッスぅ、にゃんにゃんにゃんっ、のんさんってばテクニシャンッス〜」
高野は静かに藁半紙を置いた。ベッドから降りて、デスクの前に立つ。
ベチン!
「んぎゅあ!」
高速のデコピンが気持ち悪いジャンガリアンハムスターに炸裂した。自称"魔法生物"のククだ。このくらいの衝撃では死んだりはしないだろう。俺よりも付き合いの長い高野がやったんだ、そうに違いない。
「休憩しよう」
でも、何事もなかったかのように微笑む高野はちょいと怖いです。
「何から聞きたい?」
昨日の説明が果たして休憩になるのか。そんなことを思いつつ疑問をぶつけた。
「まず、なんで保健室でやるんだ? あと、保健の先生は?」
「三上先生、保健の先生ね、に留守番を頼まれたの。で、先生は今会議中」
この学校に来て以来、保健室にお世話になったことがないので、三上先生がどんな人かは知らない。ただ、顔くらいは見たことがある。その程度の認識だ。というか、健康で怪我と無縁な帰宅部は大体こんな認識だろう。
「お前と三上先生の関係は?」
職場の留守番を頼むくらいだ、そこそこ関係があるのだろう。
「あたしが一方的に三上先生が好き」
語尾にハートマークが付いていたかも知れない。宝塚歌劇団の男役に憧れる女の子(もちろんファンとしてだ)の表情そのもので高野は言った。
「それと、怪我人がきてもちゃんと応急手当が出来るからかしら?」
立派な理由のほうを疑問系で言うな。顔を引きつらせ、言葉が出ない俺に高野は微笑みかけた。
「なっとく?」
「まあ、納得」
内科の場合はどうするんだと思いつつ、頷いた。聞いておいてなんだが、正直どうでもいいことだ。
ごほん、と咳払いをして気持ちを落ち着ける。冷静に昨日の出来事をゆっくりと思い出し、ついでにケータイが壊れた事も思い出し、ちょいとへこむ。買った店で「ここまで壊れたら修理は難しい、データも同様。でも一応修理に出してみる」とのこと。期待しないほうがいいだろう。
気を取り直して、高野と顔をさするジャンガリアンハムスターを見た。関係者しかいないからこやつは堂々と出ているんだろう。喋る喋らないじゃなくて、学校にハムスターがいること事態がおかしいからだ。
「あたしとククが何者かって?」
俺が言うより早く、高野はベッドに腰をかけてから言った。いつもの眠そうな顔とはうって変わって余裕すら感じる。ただ、何に対する余裕かは……勿論俺か。何事も知識量は多いほうが有利だ。
笠木を見る。
事情を知っているはずなのに、不思議そうに高野とククを交互に見ていた。
「のんのんにも詳しい話はしてないよね」
「うん」
なんじゃいそら。
俺は呆れ顔をした。
てことはなんだ、笠木は良く判ってないのに手伝いをしてたってか?
「希望が知ってるのは、まいまいが魔法使いで、何か集めてて、ククちゃんが喋って可愛いハムスターだってこと」
「いやん、そんな誉めても何も出ないッスよ、もっと誉めて誉めてッス〜」
殴りたい。
「みぎゃう!」
俺の意思が伝わったかのように、高野がまた立って、ククを指で弾いて床に落とした。俺は高野に向けてグッジョブと親指を立てた。それを見た高野は小さく微笑んだ。
「えっと、言ったよね、あたしはスターハンターだって」
表情を改め、高野は言った。
「うん、まずそれから説明して欲しい」
「ん」
高野は腕を組み、床に落ちたククを見た。ククは「いやッス、酷いッス、暴力反対ッス、今日もお風呂を要求するッス」と身体についた埃を払っていた。
こりゃだめだ、と言いたげに高野はため息をついて肩を竦めた。
「スターハンターってのは、その名の通り、『星』を狩る人のこと。実際は狩るんじゃなくて、回収なんだけどね」
「星って、あの夜になると見える星?」
笠木が俺が抱いていた疑問を口にする。
「詳しい事は知らないけど、違う。あれは魔力があって」
「まりょく?」
笠木は首を傾げる。漫画やゲームでは良く見る単語だが、それらに興味の人間にとっては縁遠い言葉だろう。
「ああ、FFやドラクエのあれだね」
ものすっご判りやすい例えを笠木は出した。まさか、笠木からそんな単語が出るなんて想像もしなかった。思わず吹きかける。
「?」
判っていないのは説明していた高野だ。
「すったら説明じゃ日が暮れるッス、ここは大天才のクク様がいっちょババンと説明してやるッス」
何故か勝ち誇った声と表情でククは言った。埃はちゃんと払ったらしい。その不遜な態度に、高野は何の迷いもなく、ククを蹴り飛ばした。
涙目で話したククの説明を整理する。
手始めにすごい事から。
まず、
――高野舞衣はこの世界の人間じゃありません。
おいおい待ってくれ。そうお思いの貴方、大丈夫です。俺も真っ先に思ったし、口にした。俺の反応に、高野はとても納得出来る返答をしてくれた。
「これが、ここの世界の生き物に見える?」
ククの襟首を掴んで揺らす。人の言葉を操り、人と人との意思の橋渡し(と思われるもの)をやらかすハムスター。確かにこの世界の生き物ではなさそうだ。ただ、どっかの国では見つけて、隠しているという可能性もある。そんな可能性よりも、「違う世界からきました」って言われたほうが納得出来るかもしれない。
「そうッス、こんな可愛いハムスターはこの世界にはいないッス!」
自分の容姿をここまで賛美出来るのは、ある意味羨ましい限りだ。
高野はまた迷わずククを壁に投げつけた。
だが、高野はどうだろうか?
見た目はどう見てもどこにでもいる人間で、うちの学校の制服を着てるから、どう考えても女子高生にしか見えない。
ただし、人の言葉を理解操るハムスターを飼って(クク曰く、公式のパートナーなのでこの表現は間違いかもしれない)いる。おまけに化け物と戦い、魔法としか思えない力を使っていた。
ククと同様、隠していた存在、と言うより、「異世界の人間だ」と言われたほうが納得出来るかもしれない。
いや、本人がそう言ってるんだからそうなんだろう。
昨日のことがあったから信じるが、そうでなかったらこんな話信じなかっただろう。荒唐無稽にも限度と言うものがある。
高野のいた世界について。
簡単に言うと、「ここの世界に魔法が付いた感じ」だそうだ。そう言えば顔も名前も日本人だなと言ったところ、「そりゃ日本人だもの」と返答が。「パラレルワールド、ってのが一番近いんじゃないッスかね?」とククは言った。
パラレルワールドってのは簡単に言うと『この現実とは別に、もう一つの現実がどこかに存在する』といった概念だ。辞書によると『多次元宇宙。我々の世界と併存すると考えられる異次元の世界』だ。俺は『自分のいる世界と、ちょっとだけ違う世界』と思っている。ちょっとだけってのは、俺の家のお向かいさんがいるかいないか、そんな些細な事だ。
ただ、笠木が言った「FFやドラクエ」的名ファンタジー世界が舞台ではなく、現代日本が舞台なのだろう。
高野の住んでいた星はやっぱり地球。国は日本で、埼玉に住んでいたそうだ。ここまで聞けば、先ほど高野が言った「ここの世界に魔法が付いた感じ」という言葉が納得出来る。
次、『星』について。
高野ははっきりと言った。
「よく判らない」
と。何を暢気でいい加減な事を言ってやがる、と思ったが、それが高野の上司やそっちのトップの判断らしい。
世界中で回収、分析したところ『正体不明の魔力を持っているが、とりあえず害はなさそう』と言う事だけ判ったそうだ。世界の優秀な頭脳を集めて出た結果がこれならば、どうしようもない。
『星』は今年の一月末(時間の流れは同じらしい。こっちが正月ならあっちも正月という感じだ)に、高野が元いた、魔法と機械が両立する世界に降り注いだらしい。日本だけじゃなく、世界中に。
世界中だけじゃなく、他の世界にも。
他の世界――それが俺たちが住んでいる世界だ。
そこで俺は異議を唱えた。
「降り注いだ、って言うくらいなんだから、物凄い量だろ? だったら目立つし、ニュースになるはずだ。俺、そんなの見てないぜ? それに星が落ちてきたんなら地表にもなんかあるだろ」
俺の疑問に笠木は「そうだね」と言って頷いた。高野は言った。
「あたしのとこでも地表に何もなかった。というかね、夜に、パーって空が昼みたいに光り輝いたかと思ったら、地面に何か落ちてるって状態だったの」
「目暗ましして、その何かをばら撒いたって可能性は?」
半分冗談で言ってみた。
「世界中に?」
その返答に俺は肩を竦めた。組織ぐるみでやったら出来そうだが、物凄いでかい組織がそんな下らないことをやるとは思えない。
「どうしてこっちにも降ってきたって判ったの?」
笠木の質問に、今度は高野が肩を竦めた。
「あっちの世界にはね、こっちの世界へ移動するための門があってね、それに『正体不明の魔力が通った跡がある』っていう報告が出たのよ」
高野の口ぶりじゃ、結構前からこちらの世界を認識していたようだ。それを聞くと高野は頷いた。
「うん、ずーっと前から知ってるし、交流もあるみたい。どんな交流だか知らないけど。基本は情報のやり取りだけらしいよ」
世界のトップシークッレットがあっさり暴露される。でも、よくある話だと思った。
「でも、まいまいはここにいるよ?」
それは説明されなくても判る。
「あたしらの世界の物が、のんのんたちの世界に落ちちゃったんだよ? あたしらが回収するのがスジってもんじゃない」
予想通りの答えが出た。笠木も納得したように何度も頷いた。俺は手を上げた。
「『正体不明の魔力を持っているが、とりあえず害はなさそう』な『星』がこっちの世界では化け物になって暴れてる。これはどういうことだ?」
高野は首をかしげた。
「さあ……?」
「なんだよそれ!」
思わずつっこむ。
「最初に言ったじゃない、よく判らないって。そりゃあ、報告はしてるけど……」
「ねえねえ、どうして『星』なの?」
笠木がまったく関係ないことを質問する。
「空から来たものだからよ」
「雨だって雪だってそうじゃない?」
「いいじゃない、便宜上なんだから」
いい加減だった。
「まだ質問はある?」
笠木によってはぐらかされてしまった感はある。が、見た感じじゃ高野も良く判っていないようだ。聞くだけ無駄だろう。
小さく息を吐いてから、高野に頷き、気合だけでデスクに登ってきたジャンガリアンハムスター、ククを見た。
「魔法生物って?」
笠木も高野もククを見た。視線が集まったご当人は、何故かふんぞり返った。
「魔法が使える生物」
高野の指に弾かれたククは、仰向けになって倒れた。
「まんまじゃねーか」
「だってそうなんだもん」
俺のつっこみに高野はぷくーと頬を膨らませた。
「じゃあみんなハムスターなの?」
笠木は倒れたククの腹を撫でながら言う。
「ううん。鳥だったり犬だったり猫だったり、色んなのがいるよ。で、みんな喋るわね」
魔法が使えて、人間の言語を操れる高等生物ってことか? というより、姿が他の動物なだけで、他は人間と一緒なんじゃないか?
「まいまいの世界って、モンスターが出るの? 出るなら街の外? 深い森にしかいないとか? あとは……、そうだな山奥とか。海特有のモンスターは?」
好奇心剥き出しで笠木が話の流れと関係ないことを聞きだした。ゲームやってるなら気になることかもしれない。
「ん、まあ、基本はのんのんの言った通りね。たまに街中でも出るけど……、そこは警察の特殊部隊が片付けるわね」
ふと思った。魔法生物とモンスターって何が違うんだろう? すぐにそれを高野にぶつけた。
「人間を襲うか、味方するか、あと知性の有無、じゃなかったかな? 見たことないけど、エルフとドワーフあたりは人間の味方じゃないけどモンスター扱いしてないし」
エルフにドワーフ、なんてファンタジーな単語なんだ。返答よりも、そちらに心躍ってしまう。
「人間嫌いなのか? やっぱり」
「何がやっぱりなのかは判らないけど、嫌われてはいないと思う。好かれてもいないと思うけど。住む場所が遠いからあんまり交流もないし。人間はどこでもったら語弊があるけど、エルフは森、ドワーフは地底。会うの大変じゃない」
ファンタジー漫画、小説である、人間とエルフ、ドワーフとの戦争がきっかけで〜、と言うものはないようだ。ちょっと拍子抜けである。でも、中には好奇心旺盛なエルフにドワーフが人間の街にくるかもしれない。そういうのはどうなんだろう?
好奇心に身を任せ、口にする。だが高野は、
「知らない」
まるで「興味がない」と言いたげにそっけなく言った。
「これで大体説明したよね」
ふうと一息つき、ベッドに置いてあった自分のカバンからペットボトルを取り出した。俺のカバン? ああ、平たくなっていただけかと思ったら、大小さまざまな穴が何個か開いてたよ。今日はずっと前に使っていたカバンを引っ張り出したよ。小学生の頃に使っていたものだからボロ極まりないです。何よりデザインが致命的だ。
「最後に良い?」
「――ん、いいよ」
お茶を飲んでから高野は頷いた。
「どうしてまいまいが来たの?」
質問の意味が判らない。高野が来たのは『星』の回収のためだ。で、高野はその係、ああ言ってたな『日本国スター対策本部・スター回収部隊隊員、通称、スターハンター』だとかなんとか。
「のんのん、あたしじゃ、……不満なの?」
しゅんと落ち込んむ高野。笠木は慌てて高野に抱きついた。
「そんなことないよ! ただね、希望はね! まいまいみたいな若い子がどうしてこんな危険なことをやってるのかなって思っただけの! そんな希望はまいまいに会えて嬉しいよ、幸せだよ!!」
笠木はぎゅーと高野を抱きしめた。抱きしめられた高野は嬉しそうに微笑むと笠木にその身を預けた。
微笑ましいを通り越して、百合の香りがするその光景に、外野は居心地の悪さを感じずにはいられない。
二人から顔を背け、一応同性のククを見た。
「……目の保養ッス」
いいぞ、もっとやれみたいな視線にがっくりとうなだれた。
「判ってないッスね、祐一さん」
何故か勝ち誇った声で説教垂れる。
「種族を越えて男というものは、女が好きなんス。それが可愛いなら、美人さんなら尚更!」
「ハムスターの分際で人間の女好きってのは、どうなんだよ」
「よく考えるッス! そんな可愛い、美人さんが他の男とイチャついてたら!」
華麗にスルーされた。
「自分以外の男といちゃつかれるくらいなら同性でにゃんにゃんされたほうがいいじゃなッスか! むしろそっちのほうがいいッス!! いいぞもっとやれッス!!」
変態だ、変態がいる。でも心の片隅で同意している自分がいるのは内緒だ。
「あたしがきたのはね、そーゆー案件ばっか取り扱ってるとこで働いてたからなんだよ」
「でも、学校は?」
「一応行ってたけど、ま、仕事のほうが時間とってたかな。学校側も容認してくれてたし。それにね、あたし、親いないから」
優しい笑顔で語るにはちょいと重い内容だった。笠木ははっと息を飲んだ。
「ごめん……」
「いいの、小さい頃からそうだったし。それに、この仕事のおかげでのんのんと出会えたんだから、悪くないよ。むしろ感謝してるくらい」
今度は高野が笠木を抱きしめた。ハムスターが「いいぞもっとやれッス」と身体を弾ませた。
俺は疎外感を感じつつ、二人に背を向けた。
「数学なんて将来、必要ないと思うの」
「そう言う奴は大体、数学に関係ない職業につくんだよな」
俺の一般論に高野はむっとした。
高野の事情説明という名の休憩を終え、俺たちは再び宿題に取り掛かった。といっても、俺と笠木は英文の写しなのですぐに終わってしまった。高野は予想通り数学に手間取っている。それが予想できたから高野はさっさと英文の写しだけは終わらせていた。
で、今は俺が高野に数学を教えている。そのほうが早いと判断したからだろうか、それとも笠木に口を出させたくなかったのか。まあ、後者だろう。
「次の問題も、……うん、同じ公式を使うんだ」
「……うう」
半泣きで取り掛かる高野を見る。学校よりも仕事に行っていた、と言う割りには高野はちゃんと出来ていた。説明すればちゃんと解ける。たぶん、数学が苦手という思い込みと、笠木の説明(と言う名のカオス)に混乱していただけだろう。
藁半紙を覗くと丁寧に書かれた途中計算と回答があった。
「なんだ、出来るじゃないか」
「そりゃあ、教えてくれたからだよ」
それもそうだ。
「教え方、上手なんだね」
「……比較対象があれなら誰でも」
素直な賞賛に少し照れる。それを隠すためにちょいと眉間に皺を寄らせて、笠木をちらりと見た。
「それは、まあ……」
比較対象にされた笠木は高野がいたベッドで横になってククと遊んでいた。無邪気なその様は微笑ましかった。本気で自分と同じ歳なのかと疑ってしまう光景だった。
「で、あと何問?」
「いちもん」
じゃあすぐに終わるな。俺はもう放っておいて良いと判断し、ぼうと窓の外を眺めた。
高野の話をじっくりと検討する。
高野舞衣は、俺が今生きているこの地球と似た世界からやってきました。
その世界には魔法というものが存在しています。人間だけでなく、エルフやドワーフと言う種族もいます。似たようなもので、魔法生物という、人間に友好的な生き物もいます。
人間に害なす、モンスターもいます(どんなものかは不明、ただ聞けば答えてくれるだろう)。
今年の一月の末、高野の世界に便宜上『星』が降りました。『星』の力は世界のトップの頭脳を持ってしても大したことは判っていません。『正体不明の魔力を持っているが、とりあえず害はなさそう』と言うことだけです。
『星』は高野の世界だけでなく、俺たちの世界にも降ってきたそうです。
まずここで疑問だ。
俺たちの世界にも降ってきた。
高野の世界に降ってきたときは、『夜に、パーって空が昼みたいに光り輝いたかと思ったら、地面に何か落ちてるって状態だった』とのこと。
俺たちの世界ではそんなことは起きていない。起きているならば大々的にニュースになっているはず。大してニュースを見ない俺でもさすがにそんなことが起きれば知ることになるだろう。
てことは、この世界ではそんなことは起きていない。世界規模の自然現象(?)なので隠蔽は出来ないだろう。
これはどういうことだろうか?
高野に聞いたらたぶん「知らない」と答えそうだ。
次の疑問。
『正体不明の魔力を持っているが、とりあえず害はなさそう』
害はなさそう。そんな言葉を使っているくらいだ、『星』が降ったせいでモンスターの力が強くなった! ということはないんだろう。
だが、昨日俺は見のだ。高野が犬の化け物と戦っているところを。
これはどういうことか?
高野の世界でも、俺が見た化け物は発生したが、問題なく排除出来るから『害はなさそう』なのか。それとも本当に何もなかったから『害はなさそう』なのか。
それとも単純に、『星』は高野の世界では無害だが、俺たちの世界では有害という事だろうか?
魔力のないこの世界で?
似たようなものだと……電力か? でもそれは高野の世界にもあるだろう。
どういうことなんだろう……?
「できたー」
難問を片付けたと言いたげに疲労が滲んだ声だった。
「おつかれ」
「うん、ありがと。うぅうんっ!」
シャープペンを置いて背筋を伸ばす高野。細い腕が蛍光灯に照らされた。
「まいまい、お疲れ様〜。……三上先生、遅いね」
ククを肩に乗せ、笠木が言った。
「そうね……もう、五時かあ。今日は駄目かな」
「何が?」
「ん、星回収」
疲れていても仕事を忘れない高野に尊敬の念を覚えた。というか、本業なんだから当然か。学業が副業か。羨ましい。
「なあ、お前今後数学の宿題が出たらどうするんだ?」
一つのひらめきと共に高野にとって嫌な質問をした。良い意味か悪い意味か、どちらかは受け取る側が決めるとして、高野は数学担当の鈴木先生に目を付けられている。たった二週間(実際に接する時間はもっと短いが)で力を入れて指導してもらえるなんて、ある意味幸せである。高野の事情を知った今では、ただの迷惑にしか映らないが。
「……嫌な事言うわね。……まあ、頑張るよ」
「一人で?」
「うーん、皐月に聞いても……駄目か、あたしと一緒で苦手だし。じゃあ美沙緒ちゃんは……ああ、バス通だもなー、すぐ帰っちゃう」
皐月というのは高野、笠木と仲の良いクラスメイトである。で、美沙緒というのは皐月、西野皐月の幼馴染の
西野にはもう一人幼馴染がいる。その名は
「何とかするよ」
力なく、引きつった笑顔で高野は言った。その笑顔に悲壮感が漂う。こっそりとガッツポーズを取った。
「なあ、これから俺が数学見てやるからさ、高野の仕事の手伝いさせてくれよ」
「はい?」
俺の提案に、高野は固まった。意味が判らなかったのだろうか。
「え? なに?」
聞きたくないことを聞いてしまったが、確認は取らざるを得ない、そんな表情にちょいと腹が立つ。だがそれをぐっと堪えてもう一度言う。
「これから俺が、お前の、数学を、見てやる。だから、お前の、仕事の手伝いを、させてくれ」
判りやすく細かく文を区切る。言葉の意味を理解した高野の顔が引きつる。
「……っだめ」
否定の前のためが、迷いだと思いたい。
「危険、危ない、物騒」
全部同じ意味じゃないか。
「大丈夫、邪魔はしない。ちゃんと後ろで見ている」
おいおい、お前昨日、化け物を見てビビっていたじゃないか。そうつっこまれても仕方ないと思う。でもあれは突然のことだった。ちゃんと知っていればたぶん、そうたぶん、冷静に対処出来たはずだ。
「そういう問題じゃない」
「判ってる。でも、クラスメイトがそんな危険な事をしているのに、放っておけというのは酷な事だ。
それにな、自分と同い年の女の子が戦って、男の俺が戦わないなんて、情けないじゃないか」
心にもないでまかせ、ではない。ちゃんと心配している。でも半分くらいは好奇心だったりする。
高野が、ほんの一瞬、きょとんとした。だがすぐに表情を引き締める。
「だめ、責任取れない」
「こっちの日本には自己責任という便利な言葉がある」
危険な国ですよ、と散々言われている地域に行って人質として捕まったユカイな三人組を思い出しつつ言う。
「それに、数学どうするんだ? 一人で出来るか? それとも笠木に頼むか?」
「それは嫌」
即答だよ。笠木をちらりと見ると、少し悲しそうな表情をしていた。
「このままだと試験も困るな。で、一人で出来ないとなると補習も確実だな。知ってると思うけど、うちの学校は再試よりも補習のほうが多いぞ」
参加したことがあるから知っているわけではない。友達から聞いたのだ。
再試は数時間の拘束で済むが、補習は数日の拘束となる。高野にとっては厄介なものだ。
「な、俺、責任持ってみるから、手伝わせてくれよ。別に一緒に戦いたいなんて言わない、ほら、情報収集とか」
「そ、それくらい、自分で出来る……」
俺に「数学が?」とつっこまれると思ったんだろう。勢いがなかった。
「いーんじゃないッスか?」
ククが会話に割って入った。笠木はベッドから降り、デスクの前に立った。左肩からククをデスクの上に下ろした。
「舞衣さんの数学の出来なさっぷりを考えたら、悪くない条件じゃないッスか」
間髪いれず、ぺちん! とククは弾かれた。
「にゃッス!」
強く弾いたんだろう、折角デスクの上にいたのに、今では落ちる寸前だ。笠木が慌ててククを両手で救い上げる。
「うー……」
悩んでる悩んでる。眉間に皺を寄せ、唇を歪ませて、腕を組む。足はいつ苛立ち気に貧乏ゆすりが始まってもおかしくないほど忙しなく動いている。
待つ。ただひたすらに。
時計の針が進む音だけが聞こえる。
「ちゃんと、教えてくれる?」
お、良い兆し。見えないようにガッツポーズ。
「もちろん」
大きく頷く。
「戦闘には関わらない? ちゃんと言う事聞いて、離れたとこにいてくれる?」
「もちろん」
同じ動作を繰り返す。何故か笠木も同じ事をしていた。……まさか。
「もちろんっ、まいまいの邪魔はしないよ!!」
左手をきゅっと握り締め、ガッツポーズ。勢い良く作ったせいで、二つに結ばれた長い髪が揺れている。
「え、のんのんも?」
引きつる高野に笠木は微笑んだ。
「希望はまいまいの、保護者だから!!」
それは初耳……。まさか、今まで倒れた高野を運んできたからとかという理由じゃないだろうな?
「これならすぐにまいまいを運べるよ!!」
倒れる事を前提に話されてもな……。ま、友達思いなやっちゃな。高野もちょっと困ったように笑っていた。
「決まりッスね!」
高野の前でククはぴょこぴょこ飛び跳ねた。普通のハムスターでは見られない光景に目を細める。まあ、規格外の生き物なんでハムスターと同一視していいのか悩むが。
「じゃあ早速、と言いたいところだけど、今日はもう遅いから解散ッスね」
ククの言葉に俺と笠木はブーイング。
「今日は見たい番組があるッス、駄目っス。認めないッス。それに舞衣さんはこれから買い物行って晩御飯作るんス、だから駄目ッス!!」
最初に後者を言え。素直に諦めるわ。
「じゃ、先生が帰ってきたら、帰ろう」
高野は軽くククの頭を叩いてから、言った。
程なくしてここの真の主が帰還。俺たち(正確には高野)の役目を終えた。俺たちは挨拶をしてから保健室を後にした。初めてじっくり見る三上先生は、美人だった。ただ、なんとなく冷たい印象を覚えた。顔立ちは整っているのでちゃんとした美人なんだが、目つきが少しばかり鋭いからかもしれない。そんな三上先生と話す高野は幸せそうだった。笠木は幸せそうな高野を見て、微笑んでいた。友達が笑っているだけで幸せらしい。
校舎を出、夕闇迫る空の下、仲良く歩く女子二人の背中を眺めつつ思う。
非日常よ、さらば! ってか?
ただ学校に行って、時間を潰して帰ってくるだけの生活も嫌いじゃなかったけど、これはこれで楽しそうだ。
それに――、良い機会だ。
何より、すごく楽しそうだ。
任務できている高野には悪いと思うがね。